2013/11/18

[Travel Writing] 深い信仰心が眠る島 - 後編

大分、長崎の旅の最終日の朝は、やや不安定な天気。青空が見える時もあるものの、時折ザッと降る雨。使いたくはなかったのですが、今日は傘が必要そうです。 (´∀`;)
(昨日も必要になるくらいの雨が降った時があったのですが、幸運にも傘を使う時はありませんでした)

とは言え、そんな一時的に雨が降るような天気であるからこそ、予想もしていなかった光景にも出会えたんですけれどね。旅の最後に見ることが出来た光景として、こんなに素敵な贈り物をいただけたのは、ある意味幸運だったのかもしれません。

福江港にかかる虹

今日も、午後は友人に案内いただいて、福江島の、特に堂崎教会のある奥浦を回ることにしました。それまでは、五島市街地を、その生活の営みを写真に収めながら歩きました。

福江港の朝漁場の一時

五島の商店街の一コマ停泊する船舶 『笑』の暖簾が並ぶ商店街

五島市の人口は4万人強(2010年国勢調査より)。1970年には7万人近くいたのですが、そこから減少傾向に走っています。街を歩くと、とても発展した街のように思います。特に福江港は漁港として、大小さまざまな施設があり、船も多く停泊。
しかし、街を歩くと、ところどころでシャッター街が。この日の前日は日曜日だから、ということもありシャッターが降りていた店も多くありましたが、週が始まってもちらほら。今はまだ子供や学生も多いし、街を歩けば賑わい、活気を肌で感じることが出来るのですが、もしそういった子供たちも大きくなって、より大きく賑わう街を求めて都市部へ移動すれば、島に残るのは年老いた方々だけに。現在、五島市の人口に対する65歳以上の割合は3割強。それが数十年後には5割。全人口の半分が65歳以上になる、という計算になるそうです。
友人から聞くその話は、別に五島市だけの問題ではなく、他の島、そして街でも聞かれることです。決して他人事ではない。人口に対する高齢者の割合が増えていくのは、発展した国、都市としての宿命とはいえ、これまで培ってきたその街ならではの文化や伝承といったものが薄れ、途切れてしまう可能性というのもあります。そういったこれから起こる事象を踏まえ、これから出来ること、どのような選択を取るかを、考えさせるきっかけにもなります。

歴史資料館前の銀杏内闇ダム堂崎教会

福江ダム五島樫の浦のアコウ

福江島と言う、西の端にある島であるという特徴から、この島には宗教に関する様々な伝承が多くあります。その中でも特に、『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』にもある通り、キリスト教に関するものが多く占められているのはご存知の通り。他にも、遣唐使の寄泊と、その過程における仏教の伝来についてもいくつかあります。宗教の伝来、もしくはその中継地点としても、この島は重要な位置を示していたんですね。
とは言え。これらの教会が、実際のところは五島列島の各地にこれほどまでに散りばめられているとは、ちょっと予想外でした。もちょっと市街地に集中しているという手前勝手な目論見が… (´∀`;)
さらに、五島列島の島々も、人が住んでいる住んでいないに関わらず大小さまざまある、というのはご案内した通り。そんなたくさんの表情を魅せる島を、たったの1泊2日で済ませてしまったのは、今回の旅の唯一の後悔したところでもあります。
とは言え、今回の五島市の最大の目的は、友人と昼食を食べること。それが果たせただけでも個人的には大満足。 (´∀`)

この日、最後に訪れたのは堂崎教会。明治6年に建てられたレンガ造りの教会で、現在は教会としての機能はカトリック浦頭教会に移し、堂崎教会は資料館として公開されています。
中には、これまでの豊臣~徳川の政権によって迫害され、苦渋の毎日を過ごしていたことが窺えます。そんな中でも、己の信仰を守るために、あるいは姿を微妙に変え、あるいは巧妙に隠し通すなど、数百年にもわたる頑ななまでの信仰心が感じられます。
しかし因果なことに、世界では、キリスト教は時と共にその姿を変え、頑なに守ってきた姿や方針は、キリスト教が公に認められた時には明治以降、人々を愕然とさせるに至ったわけです。ある人は、その変わった方針に従う人もいるわけですが、それでも、自分たちが守ってきた方針を今でも守っている人もいるわけで、それだけ、自分の心の拠り所である宗教がどれだけ重要な位置を占めているのかが感じられます。


福江から長崎経由で東京へ。帰る際、友人から五島市の名物五島うどんをお土産にいただいました。普通、麺通しがくっつかないようにうどん粉をまぶすわけですが、五島うどんはそれに椿油を使っているとのことで、喉越しもつるつる、食感もモチモチ、本当に美味しいうどんです。
この2日間も含め、改めて御礼申し上げます。
福江島を離れ、長崎空港で東京へ向かう中、既にアンニュイな気持ちが。感動する光景や思わぬところで色々な人と交わり、楽しいひと時を過ごせただけに、離れるのは本当に寂しいなぁ、と。
しかしこういう時は、ちょっと気持ちの切り替えをしています。これは永遠の別れではない。これが出会いの始まりである。生きている限り、また会うことが出来る。それが、次の楽しみにつながる。そう思いながら、長崎を離れたのでありました。

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