2013/12/29

[Travel Writing] 雪の京都・大原

今まで何度も京都に足を運んでいますが、未だかつて『雪の京都』を体験したことがありませんでした。桜や紅葉の季節は、大体時期が決まっていますし、桜も紅葉も、見ごろになったら翌日は無くなっている、ということはありませんので、スケジュールも作りやすいのです。
とはいえ、さすがに休日はよほどのことが無い限り避けますが。桜にしても紅葉にしても、観賞に休日を選ぶのは得策ではありません。平日も平日で、外国人観光客で覆い尽くされますが。 ^^;

「京都の雪はしっかり降りますよ!」
という知人の弁。しかし、様々なサイト上で確認した上で、京都でしっかりと雪が降った、という記憶がほとんどありません。正確に言うと、雪は降れどうっすら程度で、午前中、もしかすると朝のうちに雪は融けてしまう、というのがほとんど。多くの社寺では開門が9時ですから、その時には望む光景が見られない、というのがほとんどです。
雪を完璧に予測することは出来ませんので、宿泊しようにも出来ないし、社会人になってから、雪の光景を見るために平日二日間休んで宿泊、というのも非常に難しい。ライブカメラで常時観測しようにも、始発で出発する時間帯はまだ暗いのでよく見えないし、開門してからサービスを開始するところだってある。
要するに、関東に住む人間にとって、『雪の京都』をしっかりと目に焼き付け、写真に収める、というのは、一種の賭けなのです。

天気予報もしっかりと確認し、前夜のニュースで京都に雪が降った、というのを確認したうえで、新幹線のチケットを購入。早朝出発、始発の新幹線で京都に向かいました。


雪の三千院 - 一雪の三千院 - 二

雪の三千院 - 三雪の寂光院

新幹線に乗車している最中、ずっと金閣寺のライブカメラをチェックして、舎利殿に雪が積もっていることを確認。京都駅に到着するや否や、バスに飛び乗り金閣寺へと向かいます。天候は晴れ。観光にはお誂えの天気です。が、早期の融雪が心配です。
ところが。金閣寺到着10分くらいまえから、舎利殿の屋根の融雪で屋根の色がむき出しになり、あまり風情が感じられなくなってしまい……
バスを降りることはなく、金閣寺を後にしました。 (ノд`)

そこから、バスの中で必死になってその後の行程を組み直し、向かった先として選んだのが、『大原』。バスの経路と乗換場所を確認し、『大原』へ向かいました。そして読み通りの光景を見ることが出来ました!


三千院は、客殿からの道のりは、杉林が多く、あまり日光も届かないため、融雪もそれほどありません。が、大原のバス停を挟んで三千院の反対側の寂光院にいくと、既に昼も過ぎた時間ということもあってか、本堂などの雪はほとんど融けていました。
それでも、念願の京都の雪化粧を見ることが出来たというのは感無量で、寒さを忘れて必死にシャッターを切っていました。
やはり、大原に瞬時に踵を返した、という判断が良かったと思います。残念ながら寂光院の雪は、境内の一部を除き融けてしまった感じがしますが、白く化粧された三千院の境内は素晴らしいものがありました。残念なところと言えば、最初に三千院を真っ先に目指せば、境内の人もそこまで多くなく、深閑とした中で散策できたということ。とはいえ、三千院も京都の代表的な観光地の一つですから、致し方ないところはありますが。 ^^;


雪の貴船神社 - 一雪の貴船神社 - 二

雪の鞍馬寺 - 一雪の鞍馬寺 - 二


車(タクシー含む)ではない、公共交通機関の移動の場合、大原のから貴船・鞍馬に行くには、一旦宝ヶ池まで降り、そこから叡山電鉄鞍馬線に乗って、貴船・鞍馬へ。
既に午後も後段に入っているし、終日晴れた天候であったため、雪化粧は無理だろうと思っていましたが、意外や意外、貴船神社・鞍馬寺は、まだまだ雪は残っていました。とはいえ、やはりそれも一部のみ。貴船神社も、奥宮であれば雪が残っていますが、本宮の参道で有名な石段の雪は全くと言っていいほどなかったですし、鞍馬寺の本堂も、既に雪は無い状態でした。それでも、この日のテーマである『雪の京都』を探しに、特に鞍馬寺では境内でもある鞍馬山を歩きながら、撮影に勤しみました。

大原も貴船も、いずれも坂道を登って辿り着く場所。それ故、絶え間なく流れていく雪解け水が、冷たい空気に晒され、道路が凍結します。急いで下ると、滑って転んでしまいますのでご注意を。 ^^;


雪の龍安寺雪の金閣寺

ちなみに後日談となりますが、冠雪の金閣寺を初めてこの目で見ることが出来ました。同じく、雪の龍安寺も。
しかし、さすがは冠雪の金閣寺。日曜日と言うこともありますが、9:30と、まだ開門してから30分程度であるにもかからわず、境内は既に大混雑…
取り敢えず、雪の金閣寺は行きました! という既成事実のみを作った、ということで、多分もう次は行かないでしょう。 (´∀`;)

2013/12/20

[Review] ゼロ・グラビティ

まるで観客にも無重力空間を体験させるかのような作品です。
観客に、まるでそのインシデントもしくはアクシデントの場に居合わせるかのような撮影手法として、『クローバー/HAKAISHA』が挙げられます。謎の生命体によって無差別に都市が破壊されるのを余儀なくされ、逃げ惑う人が手に持つハンディカム・ビデオで、それを通して観客はその臨場感を感じます。表現方法はそれとは全く違うものの、宇宙空間の、ひいてはそこで発生する様々な出来事を、主人公の視点で感じさせ、その場に居合わせる『臨場感』を提供する、というスタイルには全く変わりはなく、さらにその表現方法に『3D』ならではの技法が加えられたため、

しゅ、終始気持ち悪かった…… (´д`)

宇宙飛行士の訓練の一つに、『無重力になった状態、もしくは無重力に近い状態』に身を晒した時の自律訓練がありますが、大抵その訓練を受けた者は、酔って気持ち悪くなるとか。同じく、民間で無重力を体験できるツアーでも、開始してものの数分で気持ち悪くなってリタイアする人もいるとか。そんな感覚を、映画館で手軽に! ……というわけにはいかず。

というわけで、この作品を鑑賞する前の飲食はくれぐれもご注意ください。


もう一つ、この作品の観どころというと、無重力状態で出くわしたアクシデントが、如何に絶望感に打ちひしがれ、且つ、それから脱するために、地上にいる時以上に自分の脳をフル回転させる必要があるか、ということ。
何といっても、支えが無い。重力が無いから、どこに重心があるか、どこを自分の重心に合わせたらいいか分からない。加えて、前後左右上下も分からない。重心の無い世界で、何らかの力が加えられれば、支えが無い限りそこから自力で止まることなど出来ない。これほど、『人間』の無力感を感じることなどないでしょう。地球上の大自然ですら『人間』はその力に翻弄されているというのに。
そしてそれは、観客にも心に深く絶望感を植え付ける。だから、作品が観終わった後、ちゃんと灯りを見ることが出来て、自分の足がちゃんと地面(床)についていることに、心から安堵する。自分の『重心』と『自律』出来ることの素晴らしさを、再確認することが出来るのです。

まぁ、実際に宇宙でこの作品のような事故が起きてしまったら、現実には、作品のようなこと(いわゆる地球に帰還できるためのお膳立て)は万に一つもないように思います。如何に、あらゆるアクシデントに合っても対応できるよう訓練を積んでいるとはいえ、実際にはそれ以上の、予測し得ないアクシデントだってあり得るわけです。
最終的には、自分の脳と、そして身体をフルに活用して、どう最善を尽くすか、それに尽きるのでしょうね。あのように自分の重心すら分からない状況で、『最善を尽くす』など、とてもじゃないが重くのしかかるでしょう。重力がない状況であるのもかかわらず。 ^^;



映画『ゼロ・グラビティ』オフィシャルサイト

2013/12/11

[Review] 利休にたずねよ

虫の声を欧米人は右脳で処理するが、日本人は左脳で処理するといいます。論理や言語をつかさどる左脳で聞く日本人は虫の鳴き声を「虫の音」ではなく「虫の声」と感じるのに対して、情緒や音楽をつかさどる右脳で聞く欧米人にとっては虫の鳴き声はあくまでも音でしかない、と。
だから欧米人は、日本人が何故虫の音に情緒を感じるのかが理解できない、ただの耳障りなだけじゃないか、と言うのだそうです。今でこそ日本文化が世界に遍く浸透したからこそ、虫の音に情緒を感じる海外の方も多くなったけれど、それほど、『美』に対する意識の隔たりは、日本人と海外、特に欧米の人との間には大きなものがあったのかもしれません。

茶聖として後世に今もなもその名を轟かせる千利休。彼が点てる茶も、その茶を点てる場所である庵も、『見た目』だけで言えばお世辞にも美しいと程遠いかもしれません。
しかしそれは彼にとっての『美』のほんの一要素に過ぎない。内装を質素に誂えながら、だからこそ目を引かれずにはいられないアクセント(竹筒や竹籠で作られた花瓶とその生け花)、茶を点てる時の所作、静寂の中にこだまする衣擦れ、庵の外から差し込む僅かな光と外気の心地よさ、風の音、木々の揺らめき。
そして     
器に注がれる水の音、茶器、器から身体に注ぎ込まれる茶の味と香り。その席に立ち会った時にしか立ち会えない『美』。当然、絵にも写真にも収めることが出来ない、五感で感じとる『美』。それこそが、この作品から感じられる利休が追い求めてきた『美』であるように思います。
さらに、利休はその『美』を決して強要したり、これ見よがしに強調したりすることもない。ただ、自分が感ずるままの『美』を、淡々と、そして自分の心が揺るぐことなく表現しているだけ。むしろ、それに周囲が踊らされ、狂わされ、にも関わらず彼を『人たらし』と評する。まぁ得てして『人たらし』とはそんな人物なのかもしれないですけれど。。。

そんな利休像を、10台から70台にかけて演じきった市川海老蔵氏。
色々と物議を醸している人物ですが、やはり役者としては超一流。歌舞伎の世界ではエネルギーを四方に発散させるような力強さ、その眼力を保ったままで、ただ静かに、内側で燃える様、それこそ人生を『茶』に、『美』に傾倒し燃え尽くさせるような演じ方に、ただただ見入っておりました。
今作のために、表千家や裏千家等の協力の下、茶道を学んできたといいます。ただひたすら、自分の究極を追い求めるように、ある意味で貪欲なままに茶を点てる時の彼の所作の一つ一つは、魅入られるべき力が込められていると思います。
もう一つ、この作品で楽しめたのが、器に注がれる水(湯)の音。これがなんと言っても心地よい。ただこれだけでも、この作品の『美』を一層印象付ける要素になっているのではないかな、と思います。


ではそれ以外は、というと。正直言って、それ以外は本当におまけ。
(敢えて申し上げれば、中谷美紀さんの宗恩(利休の妻)の演技)
信長も秀吉も引き立て役にすらならなかった。市川海老蔵氏が他の共演者を食ってしまうがばかりのエネルギーを持っていたから、なのかもしれませんけれど。
特に、利休の若い頃の経験が、茶人として確立してからの『美』の体型を築き上げたこととの接点が全く分からず。分かったのは、自分が感じる『美』は、たとえ相手が神であろうと奪われない、穢されない、それだけのものを作り上げていこう、という一種の執念のように思えたのですが、それが、本作の中で表現されている『美』にどのように繋がっていったのかが、まるで抜け落ちていたのです。
この、利休の若いころの経験に関しては、他のレビューなどで散々叩かれている要素がありますので、敢えてそれは触れるまでもない(というか触れる必要もない)のですが、それを全て取っ払ったとしても。

海老蔵氏の存在感があまりにも大きく出過ぎてしまっているだけに、色々残念な点が残る作品であるように思います。



2013/12/09

[Review] キャプテン・フィリップス

2009年4月に発生した、ソマリア沖で海賊によってアメリカ国籍の貨物船船長が拉致され、救出にあたるまでの実際の事件を追った作品。実際の事件を元にしており、最後はどうなるかの顛末を理解していつつも、『単に事件を描いた』に留まらない、目を向けるべき世界の情勢、このような残酷極まる状況下で、船長は、クルーは、そして海賊は何を思ったか、そんなことを考えさせてくれる力強い作品です。

当然、漫画やファンタジー作品に出てくる海賊ではなく、それぞれが明日をも知れぬ、食える何かを求めるために狡猾な略奪行為を繰り返す海賊たちです。しかし、単なる勧善懲悪ではなく、何故この海賊たちがそういった行為に身を委ねる結果となってしまったのかも見どころです。さらに彼らは、如何にして他人を押しのけて生きていくかだけに強く執着心を持っています。故に、チームワークと言ったものはほぼ皆無。少人数であるという身軽さと、「この略奪計画を遂行しなければ確実に死ぬ」という『確実な死』と隣り合わせになるからこその行動なのでしょう。
そして別の意味での『確実な死』と隣り合わせに、フィリップス船長は晒されてしまった。彼らに比べれば格段に豊かで自由の利く生活とは言え、何人と言うクルーと何億ドルという物資を運ぶ船長である、さらに危険極まりない海域であるソマリアの角を航行する以上、相応の(という言葉ですらも軽々しいくらいの)覚悟を以て仕事に全うしているはず。被害を如何に最小限に食い止めるか、それに対する最善の努力を怠らず全うし、当初は傭兵のように食い扶持を稼ぐためのクルーも、事件が実際に起こればそれに呼応するかのようにそれぞれの役割を全うする。それでも、予想外の事態は必ず起こる。

そんな、それぞれの持つ『尊厳』ための緊迫感が、スクリーンから溢れ出ているように感じました。


この作品で最も印象的だったのが、フィリップス船長が助かった後。アメリカ海軍の作戦により、船長を人質にとった海賊3人は射殺。船長が救助されたと同時に、海賊のリーダーが逮捕されます。海賊と同じ救助艇に人質として乗り込まれ、身動きも出来ない状態、さらに人質として体よく扱われていたはずが、焦りを募らせた海賊によって正に死と隣り合わせになる。
轟く銃声と飛び散る血を浴び、目の前に現れたのは、物言わぬ死体。救助後、彼は淡々とした手続きで身体チェックを施され、無事が確認出来る。が、彼は止めようもない嗚咽が…
その嗚咽は、助かったことによる安堵感なのか。それとも、海賊たちの身の上話を聞き、彼なりに何とかしたい、でも結局助けることは出来ず死という末路でしかなかったことへの後悔なのか。ここは観賞した人の解釈にもよりますが、個人的には、恐らくこの最後の部分が、フィリップス船長の最も心に深く刻まれた『傷』になったのかもしれません。


この作品について。ポール・グリーングラス監督が、「最も危険なことは、生きる目的のない若者に銃を与えることだ」と述べているそうです。解釈によっては、まだまだ裕福な人たちによる上から目線的な意見、本当の意味でのソマリアの実情を知らない発言なのかもしれない。でも、発言の意味やその解釈を、向けるべき意識を向ける前に断じることは極めてナンセンス。未だ解決していない、検証中の事件・事故に対し、責任問題を追及するのと一緒。
彼らの海賊行為の背景は何なのか。海賊を行った彼らを裁いても、その根元を断絶しなければ、また同じことの繰り返し。意見の意味・主義も貴賤はここでは問わないし問う価値も無い。まずは実行し、感じることにこそ意味がある。そんなことを問いかけているようにも思えました。



キャプテン・フィリップス | オフィシャルサイト

2013/12/02

[Review] かぐや姫の物語

この作品に最初に衝撃を受けたのは、『風立ちぬ』が上映される前のプロモーションを観た時。まるで水墨画の様な、流線形の描写と滲みの着色。憤怒に満ちた姫が街を駆け抜ける。まるで身にこびり付いた汚らわしい俗物を全て取り払うように。しかしそのシーンに流れるのは、二階堂和美『いのちの記憶』。
ゆったりとした流れの音楽と怒りに満ち満ちたかぐや姫。それは一体何を示すのか。想像力が募る一方だった。

中学・高校の古文を勉強した者なら、誰もが知っている『竹取物語』。さらに言うには及ばず、子供のころから親に読み聞かせ等で、『かぐや姫』を見聞いた人も多いだろう。
作品のキャプションには、『姫が犯した罪と罰』とあり、きっと『竹取物語』から、ジブリアニメならではの大胆なアレンジが施されているのだろう、と思うだろう。が、この作品には全くと言っていいほど奇をてらったところが無い。僅かな解釈はあるが、ほぼ『竹取物語』を忠実に再現している。
しかし、だからと言って「なんだ、別に観るほどのものでもないじゃん」とは思わなかった。それこそ、物語を忠実に淡々と運んでいるのではなく、主人公である『かぐや姫』の性質が盛り込まれ、表現されている。それもこれ見よがしではない。常に『自然体』なのだ。
そこに、『かぐや姫』が犯した『罪』と『罰』が見え隠れしているような気がする。月の住人であるその少女は、人間と同じく『好奇心』という『自我』を持ってしまったこと。これが少女が犯した『罪』。それによって地球に降り、如何に人間が『醜いか』を知ること。自身に『好奇心』という『自我』を持ってしまったことを後悔させること。それが少女に課された『罰』。

地上に生きる中で、少女は幾度となく、人間と交わることによる『辛いこと』を何度も経験した。しかしそれと同じくらい、翁や媼をはじめとする人間から与えられた人間の『情』にも触れてしまった。
その象徴となるのが、自分が手塩をかけて作り上げた庭を、「こんな私なんか『偽物』よ!」と叫びながら壊すシーン。それは、自分にも人間と同じ『醜い』ところがある、ということを自覚してしまった自傷行為。「人間は醜い」と、一方的なまでに自分と切り離して考えることが出来ず、人間の持つ溢れる『情』にも触れてしまったがために、自分の中に芽生えてしまった、『人間と同じ醜い部分』と対面せざるを得なくなった。
少女に罰を与えた月の住人は、その罰として「人間に『好奇心』を抱くな。抱いてしまった罰として、人間の『醜い部分』に触れ、心の底から後悔しろ」というものだったはず。しかしその思惑とは裏腹に、少女の心は『人間』となってしまう。花びらが舞う桜のように、まるで際限ないかのように伸びる竹のように、何ものにも縛られない風のように、自然に溶け込むような生き方を、当初、少女は、そして月の住人は求めていたのに。


いわばこの作品は、『少女』から『女性』に成長する過程を示している、とも思える。単にそれがかぐや姫だけに対するものではなく、この作品を鑑賞する少年・少女全員に対しても当てはまるに違いない。大人になる、というのは、多かれ少なかれ人間の持つ『醜いもの』に触れる、ということだ。人間の社会に生きるには、それは避けては通れないことだ。
だからこそ、しっかりと『自己』を持ち、磨いていってほしい。この作品の、観客に対し求めていることは、そういうところなのかもしれない。



かぐや姫の物語 公式サイト

2013/12/01

[Travel Writing] 晩秋の海辺のアートシティ

温暖な気候の静岡県は、紅葉の季節もどの県より遅め。12月に入り、北の方では冬支度に入っていても、静岡ではまだまだ赤や黄色の色とりどりの紅葉が見頃。街の中を吹き抜ける涼しいけどちょっと寒い風を受けながら、静岡西部の都市、浜松をPhotowalk。

浜松駅からの秋の風景街灯とアクトシティ浜松浜松城へ向かう道のり


『浜松』という都市名で、おそらく最初に浜名湖を思い浮かべるでしょう。ですが実際に地図を見てみると、浜松は南北に広く広がっており、特に北部は南アルプス山脈の南端に差し掛かっています。また、浜名湖と浜松市街地は実際には結構離れており、市街地から浜名湖への移動は、主に車かバイク(自転車含む)。
今回は市街地を中心にPhotowalkしましたが、浜松市をくまなく歩くのであれば、それこそ1日や2日では無理でしょう。湖、海沿い、そして山と、地形だけでも様々な表情を魅せる都市だと思います。

また、ここは日本が生んだ楽器メーカー『ヤマハ』の出身であり、本社が構えてあります。そこからの派生ということもあって、浜松は音楽の街としても知られており、街の至る所で、音楽にちなんだモニュメントが多く見かけられます。

家康くん

ちなみに、浜松のマスコットキャラクター『家康くん』の袴は、ピアノの柄。ここにも、音楽の街としての小粋な装飾が窺えます。 ^^
しかしその一方で、約80万人という人口と擁していても、商店街の活気は何となくですが今一つ。当然、日曜日、ということもあるのでしょうけれど。折角の風光明媚な街並みでもありますし、静岡の西部ということもあって、名古屋へのアクセスもしやすい。誰もが楽しく暮らせるよう、発展をし続けていってほしいものです。


浜松城公園の錦秋 - 一浜松城公園の錦秋 - 二

浜松城公園の錦秋 - 三浜松城公園の錦秋 - 四浜松城公園の錦秋 - 五

街撮りは、浜松城・浜松城公園、そして浜松駅の界隈を中心に行いました。
マスコットキャラクター『家康くん』にもあるように、浜松市の中心的存在である浜松城は、徳川家康の戦国末期時の居城。江戸時代以降、入城した譜代大名が出生したことから、『出世城』ともよばれ、また天守のお膝元にある浜松城公園は、市民の憩いの場となっています。公園としての規模は少々小振りながら、赤や黄色に染まった広葉樹と、常緑樹の緑のコントラストがとても美しかったです。
竹の小路で出会ったら、大砲レンズを構えたおじさんとも少し会話をしながらミニ撮影教室。さすが、ここに通い尽くしているだけあって、素晴らしい光景を写真に収めていらっしゃいました。 ^^

いつもは古い町並みを中心に選んだ街撮りをしているのですが、今回はどちらかというと現代都市を対象としたPhotowalkでした。とは言え、浜松のランドマークと言ったら『アクトシティ浜松』くらい。その他にもビルはあるものの、『高層ビル』というほどのものはありません。逆に言えば、市街地にビル群が集中しすぎない、調和のとれた街、という見方も出来ると思います。
今回のPhotowalkは市街地が中心であったものの、これだけ広大な都市であるのなら、当然浜名湖や北部の町にも行ってみたいもの。他にどんな表情を持つのか、好奇心がわきます。


最後に、日も暮れてきた頃だし、そろそろ帰りの用意をしようしたところで、浜松駅を挟んで南側の、『浜松科学館』へ。ここは、浜松市の身近な自然から宇宙に至るまで、幅広く科学について展示され、また物理現象を中心とした体験が出来る、いわば子供向けの施設となっています。
とは言え、大人でも十分に楽しむことが出来ます。

その中の、地中の微生物や昆虫を展示するコーナーですが…
何を思ったのか、そこに生きる生物を100倍にした、模擬生物が展示されており、さらにはそれが(単純挙動とは言え)動いているのでして。
つまりですね、100倍の大きさとなったムカデやらミミズやらダニが展示されているのです。これ、観覧した人にトラウマを与えませんかね。 (´∀`;)