2013/09/29

[Travel Writing] 有松絞の里

きっかけは、NHKの『小さな旅』での放送。名古屋からほんの20分くらいのところに、今に伝わる伝統工芸と古い町並があるとは知らず、興味をそそられたことです。それからというものの、簡単ながらも有松と有松絞りのことを調べ、または思いを馳せながら街を歩いてみました。


有松駅に降りた瞬間、目の前に大きなショッピングモールが見えましたので、最初は場所を間違えたかな… と思いましたが、ふと視線を横に向ければ、瓦の屋根の町並みが見えます。日曜であるにもかかわらず、ショッピングモールの賑わいとはかけ離れた、閑静な空気が包んでいました。

もともと、東海道沿いの村の一つであった有松。旅人が行き交う村として発展できる立地であったものの、江戸初期は農耕地も少なく、貧しい村であったとか。そこで、新たな産業を興すことにより村の発展につなげようと考え出したのが有松絞り、正式には『有松・鳴海絞り』というのだそうです。そもそも有松の地にいきなり絞りの技術・技法が生まれたのではなく、東海道を行き交う旅人が身に着けていた衣類の紋様の美しさを目に付けた結果なのだそうです。
『絞り』とは、その言葉の如く生地を絞ることで、染料の染み込み具合をコントロールし、様々な文様を浮かび上がらせる技法を指します。一言で申してみたものの、その紋様は様々あり、また絞り方・絞り具合で、様々な紋様・色の魅せ方を調節させることが出来ます。有松に生まれた、もしくは有松に嫁いだ女性が、母親からその技を伝授され、手が勝手に動くように様々な文様の絞りが出来るようになって、初めて一人前と言われるのだそうです。実に奥深い伝統の技だと思いました。
実際に有松・鳴海絞会館では、熟練の技を披露して下さる機会もあります。じっと座りながらもくもくと絞りを作り上げていくのですが、とても80代のおばあさんとは思えないくらいの手の速さ! 長年に渡って身についた技術が、如何なく発揮されていました。 ^^



有松の古い町並みは思ったほど広くは無く、普通に歩くだけなら、30分もすれば一通り歩き回れるというくらいです。でも、それだからこそ、ゆっくりじっくりと、悠久の時と歴史を感じながら歩ける、というものですね。
当然、有松絞りを元にしたお土産屋さんがずらりと建ち並びます。衣類やハンカチは勿論のこと、バッグや財布などの小物に至るまで、幅広く絞りの技術は用いられています。凄いのは、前述の有松・鳴海絞会館で、名古屋城本丸御殿の屏風を絞りで再現したものが展示されていたり! 完成するまで2年を要した、ということらしいですが、素晴らしい技術に、ただただ感嘆するばかりです。
また、この地域に嫁入りとして輿入れする際の御輿が展示されている、由緒あるお店や、10月に開催される『有松祭り』に使われる山車の展示もあったりと、街としての規模は小さいながらも、見どころはたくさんあります。名古屋からほど近いところにある、脈々と続く歴史と工芸の街。是非、歩いてみてはいかがでしょうか。

今回の旅では行かなかったのですが、南へ少し歩くと、桶狭間の戦いの古戦場もあります。戦国~江戸の歴史探訪にもいいかもしれません。 ^^

2013/09/28

[Travel Writing] 飛騨高山の初秋

僕の旅のスタイルは、一日と言う長いようで短い時間を目いっぱい使う(それも使った後はヘロヘロになるのはお約束w)、ということを心掛けていますので、大抵深夜バスで移動か、もしくは早朝の新幹線ないし飛行機で現地へ移動する、というスタイルを取っております。
数年前、白川郷へ行く時、その時は一旦高山市内で宿泊し朝のバスで白川郷へ行った、という行程を取ったのですが、件の高山市へのルートを調べると、深夜バスというのが無いんですよねー… (・ω・)

というわけで、車を持ってない当方からしたら最も朝早く高山へ到着できる場所として、まずは富山へ。そこから電車に乗り継いで、高山へ移動した訳であります。
高山へ向かう電車もしばらく時間がありましたので、初秋の富山城を堪能しました。


そんな感じで、いくら白川郷へ行く中継地点とは言え、東京からも名古屋からも大阪からもビミョーに遠い高山。訪れる人も、日本人はともかく、海外からの訪問客は少ないのかなー、と思ったら、意外や意外、京都にいるのかと見紛うくらいに海外からの訪問客が多かったのに驚きました。海外の人の琴線に触れる様な古来の日本の家屋や伝統があるとはいえ、京都のように、それが広範囲にわたってあるわけでもなく。それはそれで、意外と面白い現象だなぁ、と感嘆した次第です。
しかしよくよく考えたら、白川郷だけでなく、乗鞍~北アルプスへの中継地点でもあるんですよね。海外の人への登山ブームもありますし、何より乗鞍は頂上までバスが通っているという、最も登りやすい3,000m級の山、という意味でも有名で、アクセスしやすいですからね。高山~白川郷ならではの古い町並みを堪能する一方で、自然たっぷりの登山ライフを楽しむための客がひっきりなしに来る、ということでしょう。




前述の通り、高山市は古い町並みが有名なのですが、個人的には高山陣屋へ続く本町通りがお勧め。お土産屋が立ち並ぶ商店街、という感じなのですが、通りの展示物を始め、売られているお土産の数々がバラエティに富み、見ているだけでも好奇心をそそられます。
勿論、古い町並みにもお土産屋さんはありますし、ゆったりと悠久の時を感じながらお茶の一服でも… と、楽しむことは出来ます。まぁそれは、『古い町並み』というカテゴリの中での話。本町通りは、何と言いますか、関の東西、北陸、東海の中継地点と言う、様々な文化・様相が行き交うならでは、という空気が、ここから滲み出ているように思うのです。『面白さ』を感じるのであればココ! という感じでお勧めできます。 ^^



それにしても、想像した以上に高山は見たいところ、写真に収めたいところがたくさんあって、滞在時間5~6時間では全然というくらいに足りませんでした。その後、岐阜へ下って岐阜城のライトアップを見たいから、と言う理由でスケジュール調整したのが、ちょっと自分の中でも消化不良を起こしてしまったみたい… (・ω・)
今回も、古い町並みや本町通り以外には、高山城址や高山陣屋、あといくつかの社寺を回ったくらいで、所謂街撮りとい意味では自分の中ではほんのちょっと、という感じ。古い町並みだって、ちょっと時間に追われてさーっと見たくらいですもの。他にも、さらに東側の方向には東山寺院群や、南へ行けば飛騨一の宮等、それこそ知的好奇心をくすぐるところはいくつもあったのに。

このところ、街撮りにしてもじっくり感が無く、時間に追われて終わりの方はさーっと済ませてしまうことがちょっと多いです。もちょっと、じっくり腰を据えた撮影を心がけたいなぁ、と思う今日この頃です。

2013/09/25

[Review] 許されざる者

『最後の西部劇』とも言われる、クリント・イーストウッドが監督・主演を務めた『許されざる者 (Unforgiven)』のリメイク版。舞台は明治時代初期の北海道(蝦夷)。土地は荒れ開拓もまだ道半ば、作物も満足に育たず、食うや食わずの、明日をも知れぬ過酷な状況下が物語の舞台です。
物語は、オリジナルであるクリント・イーストウッド版の『許されざる者』をほぼ忠実に踏襲した作りとなっています。そしてそれぞれの登場人物が、自分の生活と誇りの為に死にもの狂いで生きている、それが故に、まさに『明日を生きる』ための渇望が、善と悪の境目に揺らぎを生じさせます。どこまでが許され、どこからが許されないのか。そう言う状況下に陥った人間を、他の人間は許せるのか、許せないのか。
そしてその状況は、時代が変わっても変わらないのではないかな、と思っております。今は科学技術の進歩によって、そうそう食うや食わずの状況ではないですけれど、インターネットの普及による顔の見えないコミュニケーションや、問題を多く孕む情報の受発信が、改めて人間の倫理を問われる時代となっています。便利で平穏、裕福な時代・世相であろうとも、その根幹や本質となる部分は、私たちが『人間』である限りは変わらないのではないか。勿論、それをきちんと理解し、一歩を踏み出すからこそ、人間としての『進化』が可能になるのでしょうけれど。

そして登場する俳優・女優さんたちも、それまでの出演作のイメージといったものもあるのですが、誰一人として『純然たる悪人』を演じる人はいなかったように思います。それぞれが『生きる』為に演じた『悪』。鑑賞した当初は、無垢な白色の中にポタリと一滴垂れた黒い点が徐々に心の中を冒していく、という感じで観ていましたが、振り返ってみると、キャラクターによっては、全編を通じて真っ黒な心中を演じつつも、実際その中には僅かながらも『白』の点が存在するような印象。その最たる例が、大石一蔵を演じる佐藤浩市さん。彼はこれまでの出演作で何度も悪役を演じた時がありましたが、本来の持つ柔和な顔の表情がそうしたのか、完全なまでの悪に徹し切れていない感覚を覚えました。まるで大極図のような人間模様。理性と本能に揺れる現状が、これでもかというくらいの『暴力』で描かれている作品です。


しかしながら、僕が観賞した時期が遅かったからなのかもしれませんが、鑑賞当時、映画館に居たのは僕を含め二人。演技派俳優・女優が豪華な布陣で揃い、話題性も抜群だったにも関わらず。
方々のレビューを見たりすると、やはり『エンターテインメント性』が皆無である、ということや、「何で今更『許されざる者』を…?」という意見がちらほら。確かに、本作は、前述の通りクリント・イーストウッド版の『許されざる者』をほぼ忠実に踏襲しただけに、それを『今』やることの『意味』というのが希薄だったように思います。李相日監督は非常に多大なインスパイアを受けて本作を制作した、というふうに述べているようですが……
そう言う意味で視点を変えてみると、原作の忠実な踏襲の他に、マイノリティへの迫害・白眼視、今作ではとりわけアイヌ・娼婦への迫害に重点を置いているかのように思います。そして、主人公一味を除くそれ以外の登場人物の多くは、長いものに巻かれろ的存在。これも同じく、自分の『平穏な生活』を保証するための一つの行動ではあるかと思います。
ならばこそ、主人公である釜田十兵衛が、決して長いものに巻かれることなく、己の感ずるままにとった暴力・殺戮の果てにある根幹の描写が少なかったなぁ、というのは残念であったように思います。原作のウィリアム・マニーが、最後に、ネッドの遺体の埋葬や娼婦たちを人間らしく扱うように要求するのを、半ば強引に、まるで長じる者に対する恫喝にも思える様な行動が見られなかったのが、残念だったなぁ、と。それがあるからこそ、所謂マイノリティへの念入れが生きてくるのかな、と思いました。

理性と本能の狭間を揺さぶらせながらも、非常に重厚感に溢れる作品です。