2013/03/30

[Travel Writing] Journey to follow the cherry blossoms - 京都・大阪編

京都の桜の代名詞の一つと言えば、ご存知の通り『醍醐の桜』。予てから写真等では見ていたものの、実物を見たことが無く、一度でいいから見てみたい! と思い、機会を見据えて計画しておりました。

が。
この年の桜の開花、というより春の気候は予想外だらけ。1月~3月上旬は寒く気温の低めの日々が続いたことも相俟って、桜の開花は例年通り、もしくは少し遅めとなるとの予報だった冬発表の桜開花情報。それが蓋を開けてみたらビックリ! 3月中旬から、もはや初夏なんじゃなかろうか、ってくらいに暖かい日が続き、桜の蕾もそれに乗じて次々と膨らんでは咲き始め、気が付いたら、観測史上2番目の開花の早さになった、とか。 (゜д゜)
京都の桜は東京や大阪に比べて比較的遅め、というのは知っておりましたので、4月上旬に立てていた計画を急遽前倒し。3月末に決行した、という流れになったのでゴザイマス…

しかし、しかしそれでもっ!
続いた暖かさは留まることを知らず、開花したと思ったら満開、そして桜吹雪に葉桜、と… 例年になくこの流れのスピードが速いため、よもや3月末ですらも間に合わないのではないか、とハラハラしておりましたが、まぁそこは何とか、間に合ったようです。 ^^;


東寺の枝垂れ桜

夜行バスへ京都へ向かい、到着したのが午前6時前。このまま電車に乗りついで醍醐寺に移動してもよかったのですが、当然境内には入れないでしょうから、移動前に京都市内散策。
と言っても、朝早くにお店が開いているわけでもありませんし、折角ですから、東寺に向かったのです。醍醐寺がメインとは言え、醍醐寺の他にも桜を楽しめるところがあるか、事前に念入りチェックしていた甲斐がありました。 ^^

当然ながら当時の朝の6時であっても境内には入れず。ですが、門越しに見える五重塔と、満開の枝垂れ桜、そして青い朝の空と、黄金色に輝く朝日。その絶妙なコントラストを楽しむのは、まさに朝の時間だけ! 境内に入れずとも、門外からでも十分にその凛とした美しさを楽しむことが出来ました。
ここも、JR東海の『そうだ 京都、行こう』の写真を見て以来、是非この目で見てみたい! と思っていた場所です。満開の枝垂れ桜は、たとえ早朝であっても多くの観光客の目を引くにはあまりあるようです。僕以外にも、(行列が出来るほどでは無いにせよ)沢山の花見客が訪れていました。


醍醐寺への移動は朝8時くらい。早すぎず遅すぎず、の行動手順で移動を心がけたつもりではあるのですが、開門30分以上前にして、醍醐寺の前には既に長蛇の列… まぁ、やっぱりネ、と、そこは腹を括ります。 ^^;
しかし写真撮影となれば、やはり午前中の勝負! 昼になると、それこそ参道は人でごった返し、ゆっくりと撮影しながら散策… というわけにはいかなくなりますから。有名スポットは、有名であればあるほど午前中行動を心がける。基本ですねぇ。 ^^



京都の桜の名所、ということもあって、境内に咲き誇る、というより境内を覆い尽くすような桜の咲き振りの見事なこと! 特に、三宝院と霊宝館の桜は素敵でした。霊宝館の敷地内の周囲は、著名人を始め、数多くの方が植樹された桜もあります。植樹したばかりで小振りながらも、花を咲かせている樹もあります。これから大きくなり、数年後、数十年後には、一層、寺の境内を彩ってくれそうですね。


霊宝館内の展示物を鑑賞し、三宝院で抹茶と和菓子を堪能。本堂・五重塔を散策した後は、大阪へ移動。今回は上醍醐の方へは向かいませんでしたが、次の機会に、是非行ってみたいと思います。大阪は、オーソドックスではありますが、大阪城に向かいました。



偶然か必然か、今回の京都・大阪の桜旅は、太閤殿下所縁の場所で行った次第です。 ^^
醍醐の花見は、豊臣秀吉の贅を尽くした花見の舞台。側室の座る順序のために熾烈を極めた争いがあったとか。そして、大阪城は言わずと知れた豊臣秀吉の居城。天守は幾度となく再建されたとは申せ、広大な敷地と威風堂々とした石垣は、往年の彼の勢いを偲ばせます。

既に午後も後段に差しかかろう、という時間だからか、花見客はピークを迎え、大阪城公園ならではの、様々な人の営みの匂いが。まぁ、それはそれでアリなような気もします。
そんな騒ぎも、大坂城へ登城するにつれて人もまばらに。お弁当やお菓子を食べたりと、のんびりと時間を過ごす人たちの様相になります。勿論、天守間近のところでは、大手門付近の人混みとほとんど変わらず、さらに天守に入るにも長蛇の列が出来ておりまして。さすがにそれは諦めました。 ^^;
変わって、西の丸庭園へ。何故かここだけ200円もかかるだなんて! 前回訪れた時は入る時間がありませんでしたので入ってみたものの、う~ん、何故ここだけ有料… と、最後の最後まで考え込んでしまったわけです。そこからでないと楽しめない大阪城と桜のコントラスト、というのもありますが、あくまでそれは後付けですがね… ^^;


朝から夕方まで、良く晴れた京都と大阪の桜見物、1日を通じて、本当に楽しむことが出来ました。京都にしても大阪にしても、まだまだ行き足りないところばかり。次への楽しみが、また増えた気がします。



醍醐寺 (Daigo-ji Temple) 大阪城 (Osaka Castle)
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2013/03/11

[Travel Writing] それでも、前を向く、それでも、歩き出す

今回の旅は、直前になって、大きな迷いが生まれた。

「果たして、僕は行っていいのだろうか」

何せ、ボランティアで行くわけではない。実際に被災地に趣き、この目で確かめる。今現在の、本当の姿。報道では見えてこないところ。僕なりに感じたこと、そして、伝えたいこと。
しかし、一歩間違えれば、単なる物見遊山の旅になる。もしかしたら、被災地に住む人も、物見遊山で、観光で来てほしい、と願っているはずと考える。いつまでも『被災地』という枠組みに捉われたくない。新たな一歩を踏み出すためには、普通の『観光』として普通に楽しむ、その地の文化を、食べ物を、楽しんで貰う、そう思っているに違いない。
また、単純に被災した現状を写真に収め伝えるのは、重要なことかもしれないけれど、それだけに終始してしまうと、「被災地の現状を見てきました」だけに終わってしまうし、これも下手をすれば、「被災地に足を踏み入れた」その事実だけで、他者への優越感に浸るだけに終わってしまう、ということになってしまう予感すらあった。

それだけになると、いざ振り返った時、「結局自分は何しに行ったの? 被災地を見て、それを写真にとって、『自分は被災地に行ったんだぞー』で終わり?」になってしまう。向かう夜行バスの中で、そんな考えが頭の中を何度も繰り返していた。
だからこそ、こういう考えが浮かんだと思う。

「被災地の今は、悲観に暮れているばかりではない。小さくても、着実に、一歩一歩前に進んでいる」

そしてそれは、被災地以外の人にも連なっていると思う。でかでかとこれ見よがしに『頑張っています』的なメッセージではない、目立たないかもしれないけれど、着実な『何か』。またそれは、自分のために、でもある。そういう瞬間に巡り合うことが出来れば、伝えられるかもしれない。被災地の人たちが、今の尚、少しずつ頑張っていることを。ずっと『被災地』と呼ばれたくない、括られたくない、気仙沼も陸前高田も大船渡も、いつか『被災地』と呼ばれず、気仙沼は『気仙沼』、陸前高田は『陸前高田』、大船渡は『大船渡』として歩んでいこうとしていることを。



未だ瓦礫が残り、更地化している中でも、欠かさずジョギングする男性。
新鮮な魚を、人々の食卓に届けるために、今日も網の準備をする漁師たち。
長らく漁を中断していた漁港が活気づき、出港時に無事を祈る人たち。
復元した高田松原の『奇跡の一本松』を前に、気持ちを新たにする人たち。

そして。

例え全てが無くなっても、また新たに作り直せばいい。それを象徴するかのように、ほんの僅かでも、寒さと土埃に晒されながらも、可憐に咲かせる花々。


それぞれが、それぞれの想いを胸に、3年目に入り、また、気持ちを新たにする。その毎日が前向きに生きられない時もあるし、うまくいかない毎日に焦りと憤りを覚え、落ち込む時だってあるかもしれない。
それでも、彼らは生きている。今は『ただ生きている』だけであっても、決してそれで終わらせようとはしない。『精一杯生きる』ための小さな一歩。本当に逞しい。東北の人たちに元気を与えるのではない。逆に元気をもらう瞬間瞬間である。


いつになるかは分からない。まだまだ、遠い先の話かもしれない。それでも、彼らが、心から笑って暮らせる日々がくることを、願わずにはいられない。

[Travel Writing] 東日本大震災から2年、これまでと、これから

少しずつ暖かくなっていっている東京。まだ薄手の服を着るには肌寒いものの、ジャケットを纏うには暖かい感じて始めてきた東京。春は、少しずつ近づいてきている。
その一方で、東北の春はまだ遠い。それでも、1月に訪れた時と比べ、刺すような冷たさは少しずつ薄れていっているようにも思える。明けない冬は無い。そんなことが頭に過る。

気仙沼の朝。まだ薄暗い市街地に降り立った。朝の、人気のない静かな街並み。街に朝の活気が出始めるにはまだ少し先の、まだ眠りについている穏やかな空気が包む。降り立った場所の周囲を見渡す限りでは、震災の爪痕は見当たらない。まるで何もなかったかのような日常が、そこにある。しかし、そこにある『かのように見える』に過ぎない。気仙沼港の方へ歩く。そこには、無残にも家の土台しか残されていない敷地があった。かつては街の中心的機能を担っていたビルも、多くが被災し、今、取り壊しの最中にある。


あれから、2年。
2年が経過した。2年しか経過していない。しかし、2年も経って、未だ、この惨状なのだ。よしんば、家屋全てが押し流されていなくても、津波によって家の中はめちゃめちゃになり、様々な残骸がうずたかく積まれ、やはり未だに片づけられている目途は見られない。玄関の扉や窓に戸板が打ち込まれているものもある。住みたくても住めない。家としての、家屋としての機能を果たせない。ただ、そこにあるだけ。驚異的な自然の猛威に、人間の、そして人間の造ったものなど、全くの無力であると打ちのめされる。

気仙沼でも、特に津波の脅威にさらされたのが、南気仙沼駅の周辺だった。多くの建物が押し流され、やはり家屋の土台のみが無残に残されている。津波に飲み込まれず、ただそのまま立ち尽くしている店の看板や駅の残骸が、僅かにかつての面影を偲ばせるが、それでも、もうそこにあり続ける理由は、無いに等しい。
また、岩井崎に向かう海岸沿いでも、津波によって被害を受けた場所は数多くあり、今でも、転覆したボートの残骸や積まれているところもある。




その一方で、気仙沼の市街地や、大船渡は、震災によって被害を受け、破壊された箇所が多く残っているものの、街としての機能はだいぶ復興しているようにも見える。2年と言う時は、被災者にとってはまだまだ短いが、それでも、少しずつでも着実な復興がなされているのだろう。

が。そんな僕の楽観的な考えを一気に覆したのは、陸前高田市に降り立った時だ。

「何だこれは。こんなことがあっていいのか」

それが、陸前高田市に降り立った瞬間に口にした言葉だ。
何も無い。何も無くなっているのだ。きっとここには、街としての息吹がそこかしこにあったに違いない。しかし、陸前高田市の、海岸沿いから小学校に至るまでの一帯は、文字通り何もなくなっている。全て、津波が押し流してしまったのだろう。あるのは、2年経っても未だうず高く積まれる瓦礫と、石や盛り土だけ。陸前高田市の惨状は、これまでにも報道等で見てきた。それでも、実際にその光景を目の当たりにすると、津波の猛威・恐ろしさを改めて感じるとともに、地震が発生し津波が街をのみこんでいく時に人々が口にした言葉、「高田は終わりだ…」その意味を一瞬にして理解するには余りある光景である。



この日は、良く晴れていたものの空気が乾燥し、風も強く、土木作業による土埃が街中を充満していた。建物が無いから、土埃を遮るものが無い。アスファルトの道、コンクリートの土台ですら、その土埃と同化して、時折どこに道が連なっているのか分からなくなるくらいである。
通りゆくトラックや車も、下半分は土埃で汚れている。どこの車も。家もない。ガソリンスタンドもない。ましてや水道設備だって。車を洗う施設すらも無いのだ。勿論、そんなことをしていられるほどの余裕も、無いのかもしれない…

「未だ復興する目途が立っていない」と、連日報道されている。
しかし、この惨状を見ると、たとえ復興するための十分な資金や人材が揃っていたとしても、まず、どこの、何から手を付けたらいいのか分からないのだ。単に家がポツンとあっても仕方ない。店が必要。病院が必要。警察が必要。瓦礫も片付いていない。その処分場も決まっていない。区画整備すら決まっていない。そこに住む人たちの焦りや怒り、要望の数々が上がっても、どのように街づくりをデザインすればいいのかが分からない。これ程までに「何もなくなってしまう」と、そんな状況になっているのではないかと、思わずにはいられない。

そして、2年経った今でも、瓦礫は未だ処分されずに残っている。このBlogの写真も、ほんの一部に過ぎず、実際のところはこれの数十倍もの震災瓦礫が残っている。陸前高田市の仮庁舎で、市民の方の話を聞いたが、受け入れてくれるところが本当に少ない、という嘆きを聞く。それでも、受け入れてくれる自治体の話もいくつか上がっているという。


今回の、未だ震災の爪痕が残る東北の、特に沿岸地域を、ほんの1~2時間程度歩いただけで、自然災害の脅威は勿論のこと、何もかもが無くなってしまったことの絶望感に、痛いほど打ちひしがれた。しかし同時に、そんな数時間程度で絶望に追い込まれる等、とことん甘いことも実感した。だって彼らは、この状況を、2年も目の当たりにしているのだ。そして辛抱強く、今でも、待ち続けている。東北の人たちの辛抱強さ、しなやかさは、そういったところからも生まれているのかもしれない。
その一方で心配なのは、その辛抱強さが強すぎるあまり、これからの生活まで、その強さに埋没されてしまわないか、というところにもある。「これが普通である」「これが日常茶飯事である」ということが根強く残ってしまうと、それもまた、復興の妨げになってしまうのでは、という懸念も、勝手ながら僕の中で生まれている感情である。これだけの広範囲に渡る大規模災害に対し、しかも数十年とかかるであろう原子力発電の事故処理も相成るから、「急いで復興しなければ!」という声は無力に等しい。

僕の中で、今まで『復興』とは、単に『元に戻すこと、元の生活に戻ること』が主眼だと思っていた。でも、事は単純にそうはいかないことを、実際に震災の現場に立って思い知らされた。急いで物事が解決できる、資材や資金が揃っていれば全てが順風満帆である、というわけにはいかない。
『震災復興』とは、一体どうあるべきか、それを今一度しっかり考える、機会となった。