2016/10/24

[Review] ハドソン川の奇跡

2009年1月、ニューヨークからシアトルに向かう予定の航空機が、バードストライクによって両翼のエンジン完全停止、制御不能状態に陥るという事故に見舞われる。しかし、機長・副機長の機転と咄嗟の判断により、凍えるような寒さのハドソン川に不時着水。重大な航空機事故であるにも関わらず、乗員・乗客全員が無事生還した。のちにこの不時着水及び救出活動が、『ハドソン川の軌跡 (Miracle on the Hudson)』と呼ばれ、特に機長のチェズレイ・サレンバーガー氏は、世界中から称賛されることとなった。


この作品の原題『Sully』は、サレンバーガー氏の愛称からとられている。そして、邦題は『ハドソン川の奇跡』とある。しかし、作品そのものは当時の事故は『回想録』とでしか扱われておらず、事故が発生した後の、国家運輸安全委員会 (NTSB / National Transportation Safety Board)による聞き取り調査、事故時の判断や対応の検証、サレンバーガー氏と副操縦士のスカイルズ氏への判断の是非が焦点に充てられている。
何故『事故当時』ではなく『事故後』の物語なのか。監督のクリント・イーストウッド氏も、サレンバーガー機長を演じたトム・ハンクス氏も、事故そのものではなく、『事故に見舞われてもやるべきことをやった男の姿』を見てもらいたい、という。特に、イーストウッド監督の作品は、偉業に基づいた作品を作っても、その偉業を成した『偉人』としての側面は(少なくともその側面だけ、という形では)見せない。あれだけ『英雄』として取り沙汰された機長・副機長も、一人の普通の人間。それは前作の『アメリカン・スナイパー』のクリス・カイルにも共通したところが言える。

一躍時の人になった途端、押し寄せるマスコミやテレビ出演。どこもかしこも『有名人』として彼らを担ぎ上げるが、ヴェールを取れば、有名になったが故に終始監視されているようで、自身も、自身の家族も焦燥し、疲弊しきっている。
一方、NTSBによる事故調査の聞き取りやシミュレーションの過程で、「実は不時着水ではなく近くの空港に着陸させることが出来、より乗客を安全に避難させることが出来た」ことが指摘され、さらにその追及も容赦ない。まるで誘導尋問のようで、「はい、私が間違った判断をしました」といった発言を待っているかのような場面でも、彼等は冷静に当時を回想し、理論的に供述。彼等の判断が間違っていないことが立証された。そう言った、『いつもとは全く違う環境・状況』に置かれたとしても、『自分がなすべきこと』をしっかりと見極め、それに逃げたり目を背けたりすることなく対応している姿は、まさに『プロフェッショナル』に相応しい。そういった、『一人の人間』としての強さ・弱さ、そしてそんな立場に追いやられた時の『成すべきことを見極め、着実に成し遂げる』ことが、この作品の見どころだと思う。


ちなみに本作品では、NTSBがまるで両氏を検察官のように詰問しているように表現している。本作は、英語版のWikipedia等で、「NTSBの調査手法の表現が偏っている」とされ、論争が起こっている。
日本でもそうだが、どのような事故であれ、全ての事故は事故調査を担当する省庁や委員会に送られる。そしてその事故の渦中にあった乗組員が聞き取りの対象になるのは当然のことだ。しかし実際のところは、両氏を陥れるような質問の仕方等は行っていない、という。サレンバーガー氏も、高圧的な印象はなかったらしい。
ということは、このシーンの描写は完全な脚色だろう。勿論、この作品は『事実に基づいた作品』なのだから、『事実そのもの』ではない。脚色なしに淡々とした質疑応答のみではエンターテインメント性に欠ける可能性があるから、このような脚色を施したのかもしれない。

ここも、『アメリカン・スナイパー』と同様のことが言える。一人の『普通の人間』が、極限の状態や日常と全く異なる状況(『アメリカン・スナイパー』では戦場、『ハドソン川の軌跡』では航空機事故と事故調査)に追いやられた時、人は何をどうするか。強くもありまた弱くもある彼等は、そんな時でも、『プロフェッショナル』として振る舞わなければならない。そんな、人間誰しもが持つ苦悩と苦闘を描きたかったのかもしれない。

2016/05/06

[Review] エヴェレスト 神々の山嶺

夢枕獏による小説の映画化作品。原作小説を読まずに鑑賞したのだが、小説自体は、多くの読者が絶賛していたのだという。しかし、それであるが故に、小説ファンの落胆は凄まじかったに違いない。現に。小説を読んでいない自分自身でさえ、この作品は随所で違和感や矛盾を感じた。エベレストを舞台にした壮大なスペクタクル作品であるが故に、それを数時間の映像に収めること自体がほぼ不可能に思う。「それを知っても、よく映像化させた」という賞賛も、自身の中には無い。

年代物のカメラが、カメラマン・深町と数々の偉業を成し遂げた登山家・羽生の出会いにつながり、それが縁となり、二人を中心とした物語が紡がれる。羽生の熱気に当てられたように、深町は羽生に魅入られ、追いかけていくうちに、彼の人生観や生命をかけても追いかけたいものがあることを知ることになる。そして自身も、羽生の辿った軌跡を追い、彼が何を見出そうとしたかを目の当たりにする。
しかし、小説未読であることを前提の上での感想であるが、その描き方、物語の進め方が、あまりにも不可思議なことだらけだ。
まず、あまりにも簡単にエヴェレストに登ることが出来るように表現されていることだ。そもそも入山だけでもかなりの高額な費用を必要とするはずなのに、何度も向かっている。まるで、比較的アクセスしやすい山に登山しに行くような錯覚を覚える。しかもそれを、鑑賞中ほとんど『単独』で行っている。羽生は、彼の生き様や過去の経験から、何が何でも単独で、という気持ちはわかるが、そもそも深町に、それだけの力量があってこそ挑戦できたのか、疑問が募るばかりだった。ましてやほとんど登山の経験のない人物が、たとえ5,000m近くを拠点にして、登ってから何日も帰ってこない人を待ったりする、というのも、疑問を呈せざるを得なかった。
続いて、尾野真千子が演じる岸凉子の、エヴェレストへ行くことの動機だ。彼女の気持ちを察すれば、自分を見捨てたも同然の羽生や、その行動に至るまでの過程である『登山』そのものを恨むはずなのに、あまりにも短く凝縮された台詞で、「私もエヴェレストに行きます!」というところ。ここまで見事に心変わりし、深町のエヴェレスト登山に同行しようとする岸の変貌は、違和感を通り越して滑稽と言わざるを得ない。
最後に、ラストのシーンの、阿部寛と岡田准一の、男らしくも重いナレーションが長く続き、くどさを感じたことだ。これも演出の一部であるかもしれないが、鑑賞した後の蓄積した疲労感は如何ばかりか。


邦画作品に見られることだが、限られた時間の中で伝えたいことを凝縮して表現する『引き算』として製作していくところを、ほとんど引き算せず、一部では足し算をして一層物語を希薄にさせてしまい、そもそも感情移入や伝えたいことの顕在化が全くなされていないことがある。一方で、原作では、作品の最初に見られた『ジョージ・マロリーが撮影したフィルム』に重点を置いている、とされる。一方この作品は、ジョージ・マロリーのフィルムは序盤に重きを置いているだけで、あとはほとんど語られていない。これはあくまで、『羽生と深町が出会い、深町が羽生にのめり込むための切っ掛け』に過ぎないのかもしれない(実際、ジョージ・マロリーのフィルムは見つかっておらず、全くの謎に包まれている)。
そもそも、舞台の多くをエヴェレストに焦点を当てていること、壮大なスペクタクルを現地ロケを交えて撮影しているのだから、長期間、キャストを滞在させるわけにもいかない。本来、これほどの作品なのであれば、少なくとも前後編に分けて公開すべきなのだろうが、予算の関係などでそうはいかなかったのだろう。恐らく、様々な要因がそう簡単に解決できない状況下に置かれたからなのか、これほどまでに中途半端な作品に終わってしまったのかもしれない。

自分自身における『作品の表現』においても非常に通じるものがあるから、この作品の悪いところは、そのまま自分自身にも降りかかっているように思う。限られた時間であるからこそ、『最も表現したいもの』『一番伝えたいこと』に削ぎ落し、注力を当て、作品を作っていかなければならない典型的な例を目の当たりにしたように思う。小説が人気があっただけに、非常に残念な作品だった。