2013/12/29

[Travel Writing] 雪の京都・大原

今まで何度も京都に足を運んでいますが、未だかつて『雪の京都』を体験したことがありませんでした。桜や紅葉の季節は、大体時期が決まっていますし、桜も紅葉も、見ごろになったら翌日は無くなっている、ということはありませんので、スケジュールも作りやすいのです。
とはいえ、さすがに休日はよほどのことが無い限り避けますが。桜にしても紅葉にしても、観賞に休日を選ぶのは得策ではありません。平日も平日で、外国人観光客で覆い尽くされますが。 ^^;

「京都の雪はしっかり降りますよ!」
という知人の弁。しかし、様々なサイト上で確認した上で、京都でしっかりと雪が降った、という記憶がほとんどありません。正確に言うと、雪は降れどうっすら程度で、午前中、もしかすると朝のうちに雪は融けてしまう、というのがほとんど。多くの社寺では開門が9時ですから、その時には望む光景が見られない、というのがほとんどです。
雪を完璧に予測することは出来ませんので、宿泊しようにも出来ないし、社会人になってから、雪の光景を見るために平日二日間休んで宿泊、というのも非常に難しい。ライブカメラで常時観測しようにも、始発で出発する時間帯はまだ暗いのでよく見えないし、開門してからサービスを開始するところだってある。
要するに、関東に住む人間にとって、『雪の京都』をしっかりと目に焼き付け、写真に収める、というのは、一種の賭けなのです。

天気予報もしっかりと確認し、前夜のニュースで京都に雪が降った、というのを確認したうえで、新幹線のチケットを購入。早朝出発、始発の新幹線で京都に向かいました。


雪の三千院 - 一雪の三千院 - 二

雪の三千院 - 三雪の寂光院

新幹線に乗車している最中、ずっと金閣寺のライブカメラをチェックして、舎利殿に雪が積もっていることを確認。京都駅に到着するや否や、バスに飛び乗り金閣寺へと向かいます。天候は晴れ。観光にはお誂えの天気です。が、早期の融雪が心配です。
ところが。金閣寺到着10分くらいまえから、舎利殿の屋根の融雪で屋根の色がむき出しになり、あまり風情が感じられなくなってしまい……
バスを降りることはなく、金閣寺を後にしました。 (ノд`)

そこから、バスの中で必死になってその後の行程を組み直し、向かった先として選んだのが、『大原』。バスの経路と乗換場所を確認し、『大原』へ向かいました。そして読み通りの光景を見ることが出来ました!


三千院は、客殿からの道のりは、杉林が多く、あまり日光も届かないため、融雪もそれほどありません。が、大原のバス停を挟んで三千院の反対側の寂光院にいくと、既に昼も過ぎた時間ということもあってか、本堂などの雪はほとんど融けていました。
それでも、念願の京都の雪化粧を見ることが出来たというのは感無量で、寒さを忘れて必死にシャッターを切っていました。
やはり、大原に瞬時に踵を返した、という判断が良かったと思います。残念ながら寂光院の雪は、境内の一部を除き融けてしまった感じがしますが、白く化粧された三千院の境内は素晴らしいものがありました。残念なところと言えば、最初に三千院を真っ先に目指せば、境内の人もそこまで多くなく、深閑とした中で散策できたということ。とはいえ、三千院も京都の代表的な観光地の一つですから、致し方ないところはありますが。 ^^;


雪の貴船神社 - 一雪の貴船神社 - 二

雪の鞍馬寺 - 一雪の鞍馬寺 - 二


車(タクシー含む)ではない、公共交通機関の移動の場合、大原のから貴船・鞍馬に行くには、一旦宝ヶ池まで降り、そこから叡山電鉄鞍馬線に乗って、貴船・鞍馬へ。
既に午後も後段に入っているし、終日晴れた天候であったため、雪化粧は無理だろうと思っていましたが、意外や意外、貴船神社・鞍馬寺は、まだまだ雪は残っていました。とはいえ、やはりそれも一部のみ。貴船神社も、奥宮であれば雪が残っていますが、本宮の参道で有名な石段の雪は全くと言っていいほどなかったですし、鞍馬寺の本堂も、既に雪は無い状態でした。それでも、この日のテーマである『雪の京都』を探しに、特に鞍馬寺では境内でもある鞍馬山を歩きながら、撮影に勤しみました。

大原も貴船も、いずれも坂道を登って辿り着く場所。それ故、絶え間なく流れていく雪解け水が、冷たい空気に晒され、道路が凍結します。急いで下ると、滑って転んでしまいますのでご注意を。 ^^;


雪の龍安寺雪の金閣寺

ちなみに後日談となりますが、冠雪の金閣寺を初めてこの目で見ることが出来ました。同じく、雪の龍安寺も。
しかし、さすがは冠雪の金閣寺。日曜日と言うこともありますが、9:30と、まだ開門してから30分程度であるにもかからわず、境内は既に大混雑…
取り敢えず、雪の金閣寺は行きました! という既成事実のみを作った、ということで、多分もう次は行かないでしょう。 (´∀`;)

2013/12/20

[Review] ゼロ・グラビティ

まるで観客にも無重力空間を体験させるかのような作品です。
観客に、まるでそのインシデントもしくはアクシデントの場に居合わせるかのような撮影手法として、『クローバー/HAKAISHA』が挙げられます。謎の生命体によって無差別に都市が破壊されるのを余儀なくされ、逃げ惑う人が手に持つハンディカム・ビデオで、それを通して観客はその臨場感を感じます。表現方法はそれとは全く違うものの、宇宙空間の、ひいてはそこで発生する様々な出来事を、主人公の視点で感じさせ、その場に居合わせる『臨場感』を提供する、というスタイルには全く変わりはなく、さらにその表現方法に『3D』ならではの技法が加えられたため、

しゅ、終始気持ち悪かった…… (´д`)

宇宙飛行士の訓練の一つに、『無重力になった状態、もしくは無重力に近い状態』に身を晒した時の自律訓練がありますが、大抵その訓練を受けた者は、酔って気持ち悪くなるとか。同じく、民間で無重力を体験できるツアーでも、開始してものの数分で気持ち悪くなってリタイアする人もいるとか。そんな感覚を、映画館で手軽に! ……というわけにはいかず。

というわけで、この作品を鑑賞する前の飲食はくれぐれもご注意ください。


もう一つ、この作品の観どころというと、無重力状態で出くわしたアクシデントが、如何に絶望感に打ちひしがれ、且つ、それから脱するために、地上にいる時以上に自分の脳をフル回転させる必要があるか、ということ。
何といっても、支えが無い。重力が無いから、どこに重心があるか、どこを自分の重心に合わせたらいいか分からない。加えて、前後左右上下も分からない。重心の無い世界で、何らかの力が加えられれば、支えが無い限りそこから自力で止まることなど出来ない。これほど、『人間』の無力感を感じることなどないでしょう。地球上の大自然ですら『人間』はその力に翻弄されているというのに。
そしてそれは、観客にも心に深く絶望感を植え付ける。だから、作品が観終わった後、ちゃんと灯りを見ることが出来て、自分の足がちゃんと地面(床)についていることに、心から安堵する。自分の『重心』と『自律』出来ることの素晴らしさを、再確認することが出来るのです。

まぁ、実際に宇宙でこの作品のような事故が起きてしまったら、現実には、作品のようなこと(いわゆる地球に帰還できるためのお膳立て)は万に一つもないように思います。如何に、あらゆるアクシデントに合っても対応できるよう訓練を積んでいるとはいえ、実際にはそれ以上の、予測し得ないアクシデントだってあり得るわけです。
最終的には、自分の脳と、そして身体をフルに活用して、どう最善を尽くすか、それに尽きるのでしょうね。あのように自分の重心すら分からない状況で、『最善を尽くす』など、とてもじゃないが重くのしかかるでしょう。重力がない状況であるのもかかわらず。 ^^;



映画『ゼロ・グラビティ』オフィシャルサイト

2013/12/11

[Review] 利休にたずねよ

虫の声を欧米人は右脳で処理するが、日本人は左脳で処理するといいます。論理や言語をつかさどる左脳で聞く日本人は虫の鳴き声を「虫の音」ではなく「虫の声」と感じるのに対して、情緒や音楽をつかさどる右脳で聞く欧米人にとっては虫の鳴き声はあくまでも音でしかない、と。
だから欧米人は、日本人が何故虫の音に情緒を感じるのかが理解できない、ただの耳障りなだけじゃないか、と言うのだそうです。今でこそ日本文化が世界に遍く浸透したからこそ、虫の音に情緒を感じる海外の方も多くなったけれど、それほど、『美』に対する意識の隔たりは、日本人と海外、特に欧米の人との間には大きなものがあったのかもしれません。

茶聖として後世に今もなもその名を轟かせる千利休。彼が点てる茶も、その茶を点てる場所である庵も、『見た目』だけで言えばお世辞にも美しいと程遠いかもしれません。
しかしそれは彼にとっての『美』のほんの一要素に過ぎない。内装を質素に誂えながら、だからこそ目を引かれずにはいられないアクセント(竹筒や竹籠で作られた花瓶とその生け花)、茶を点てる時の所作、静寂の中にこだまする衣擦れ、庵の外から差し込む僅かな光と外気の心地よさ、風の音、木々の揺らめき。
そして     
器に注がれる水の音、茶器、器から身体に注ぎ込まれる茶の味と香り。その席に立ち会った時にしか立ち会えない『美』。当然、絵にも写真にも収めることが出来ない、五感で感じとる『美』。それこそが、この作品から感じられる利休が追い求めてきた『美』であるように思います。
さらに、利休はその『美』を決して強要したり、これ見よがしに強調したりすることもない。ただ、自分が感ずるままの『美』を、淡々と、そして自分の心が揺るぐことなく表現しているだけ。むしろ、それに周囲が踊らされ、狂わされ、にも関わらず彼を『人たらし』と評する。まぁ得てして『人たらし』とはそんな人物なのかもしれないですけれど。。。

そんな利休像を、10台から70台にかけて演じきった市川海老蔵氏。
色々と物議を醸している人物ですが、やはり役者としては超一流。歌舞伎の世界ではエネルギーを四方に発散させるような力強さ、その眼力を保ったままで、ただ静かに、内側で燃える様、それこそ人生を『茶』に、『美』に傾倒し燃え尽くさせるような演じ方に、ただただ見入っておりました。
今作のために、表千家や裏千家等の協力の下、茶道を学んできたといいます。ただひたすら、自分の究極を追い求めるように、ある意味で貪欲なままに茶を点てる時の彼の所作の一つ一つは、魅入られるべき力が込められていると思います。
もう一つ、この作品で楽しめたのが、器に注がれる水(湯)の音。これがなんと言っても心地よい。ただこれだけでも、この作品の『美』を一層印象付ける要素になっているのではないかな、と思います。


ではそれ以外は、というと。正直言って、それ以外は本当におまけ。
(敢えて申し上げれば、中谷美紀さんの宗恩(利休の妻)の演技)
信長も秀吉も引き立て役にすらならなかった。市川海老蔵氏が他の共演者を食ってしまうがばかりのエネルギーを持っていたから、なのかもしれませんけれど。
特に、利休の若い頃の経験が、茶人として確立してからの『美』の体型を築き上げたこととの接点が全く分からず。分かったのは、自分が感じる『美』は、たとえ相手が神であろうと奪われない、穢されない、それだけのものを作り上げていこう、という一種の執念のように思えたのですが、それが、本作の中で表現されている『美』にどのように繋がっていったのかが、まるで抜け落ちていたのです。
この、利休の若いころの経験に関しては、他のレビューなどで散々叩かれている要素がありますので、敢えてそれは触れるまでもない(というか触れる必要もない)のですが、それを全て取っ払ったとしても。

海老蔵氏の存在感があまりにも大きく出過ぎてしまっているだけに、色々残念な点が残る作品であるように思います。



2013/12/09

[Review] キャプテン・フィリップス

2009年4月に発生した、ソマリア沖で海賊によってアメリカ国籍の貨物船船長が拉致され、救出にあたるまでの実際の事件を追った作品。実際の事件を元にしており、最後はどうなるかの顛末を理解していつつも、『単に事件を描いた』に留まらない、目を向けるべき世界の情勢、このような残酷極まる状況下で、船長は、クルーは、そして海賊は何を思ったか、そんなことを考えさせてくれる力強い作品です。

当然、漫画やファンタジー作品に出てくる海賊ではなく、それぞれが明日をも知れぬ、食える何かを求めるために狡猾な略奪行為を繰り返す海賊たちです。しかし、単なる勧善懲悪ではなく、何故この海賊たちがそういった行為に身を委ねる結果となってしまったのかも見どころです。さらに彼らは、如何にして他人を押しのけて生きていくかだけに強く執着心を持っています。故に、チームワークと言ったものはほぼ皆無。少人数であるという身軽さと、「この略奪計画を遂行しなければ確実に死ぬ」という『確実な死』と隣り合わせになるからこその行動なのでしょう。
そして別の意味での『確実な死』と隣り合わせに、フィリップス船長は晒されてしまった。彼らに比べれば格段に豊かで自由の利く生活とは言え、何人と言うクルーと何億ドルという物資を運ぶ船長である、さらに危険極まりない海域であるソマリアの角を航行する以上、相応の(という言葉ですらも軽々しいくらいの)覚悟を以て仕事に全うしているはず。被害を如何に最小限に食い止めるか、それに対する最善の努力を怠らず全うし、当初は傭兵のように食い扶持を稼ぐためのクルーも、事件が実際に起こればそれに呼応するかのようにそれぞれの役割を全うする。それでも、予想外の事態は必ず起こる。

そんな、それぞれの持つ『尊厳』ための緊迫感が、スクリーンから溢れ出ているように感じました。


この作品で最も印象的だったのが、フィリップス船長が助かった後。アメリカ海軍の作戦により、船長を人質にとった海賊3人は射殺。船長が救助されたと同時に、海賊のリーダーが逮捕されます。海賊と同じ救助艇に人質として乗り込まれ、身動きも出来ない状態、さらに人質として体よく扱われていたはずが、焦りを募らせた海賊によって正に死と隣り合わせになる。
轟く銃声と飛び散る血を浴び、目の前に現れたのは、物言わぬ死体。救助後、彼は淡々とした手続きで身体チェックを施され、無事が確認出来る。が、彼は止めようもない嗚咽が…
その嗚咽は、助かったことによる安堵感なのか。それとも、海賊たちの身の上話を聞き、彼なりに何とかしたい、でも結局助けることは出来ず死という末路でしかなかったことへの後悔なのか。ここは観賞した人の解釈にもよりますが、個人的には、恐らくこの最後の部分が、フィリップス船長の最も心に深く刻まれた『傷』になったのかもしれません。


この作品について。ポール・グリーングラス監督が、「最も危険なことは、生きる目的のない若者に銃を与えることだ」と述べているそうです。解釈によっては、まだまだ裕福な人たちによる上から目線的な意見、本当の意味でのソマリアの実情を知らない発言なのかもしれない。でも、発言の意味やその解釈を、向けるべき意識を向ける前に断じることは極めてナンセンス。未だ解決していない、検証中の事件・事故に対し、責任問題を追及するのと一緒。
彼らの海賊行為の背景は何なのか。海賊を行った彼らを裁いても、その根元を断絶しなければ、また同じことの繰り返し。意見の意味・主義も貴賤はここでは問わないし問う価値も無い。まずは実行し、感じることにこそ意味がある。そんなことを問いかけているようにも思えました。



キャプテン・フィリップス | オフィシャルサイト

2013/12/02

[Review] かぐや姫の物語

この作品に最初に衝撃を受けたのは、『風立ちぬ』が上映される前のプロモーションを観た時。まるで水墨画の様な、流線形の描写と滲みの着色。憤怒に満ちた姫が街を駆け抜ける。まるで身にこびり付いた汚らわしい俗物を全て取り払うように。しかしそのシーンに流れるのは、二階堂和美『いのちの記憶』。
ゆったりとした流れの音楽と怒りに満ち満ちたかぐや姫。それは一体何を示すのか。想像力が募る一方だった。

中学・高校の古文を勉強した者なら、誰もが知っている『竹取物語』。さらに言うには及ばず、子供のころから親に読み聞かせ等で、『かぐや姫』を見聞いた人も多いだろう。
作品のキャプションには、『姫が犯した罪と罰』とあり、きっと『竹取物語』から、ジブリアニメならではの大胆なアレンジが施されているのだろう、と思うだろう。が、この作品には全くと言っていいほど奇をてらったところが無い。僅かな解釈はあるが、ほぼ『竹取物語』を忠実に再現している。
しかし、だからと言って「なんだ、別に観るほどのものでもないじゃん」とは思わなかった。それこそ、物語を忠実に淡々と運んでいるのではなく、主人公である『かぐや姫』の性質が盛り込まれ、表現されている。それもこれ見よがしではない。常に『自然体』なのだ。
そこに、『かぐや姫』が犯した『罪』と『罰』が見え隠れしているような気がする。月の住人であるその少女は、人間と同じく『好奇心』という『自我』を持ってしまったこと。これが少女が犯した『罪』。それによって地球に降り、如何に人間が『醜いか』を知ること。自身に『好奇心』という『自我』を持ってしまったことを後悔させること。それが少女に課された『罰』。

地上に生きる中で、少女は幾度となく、人間と交わることによる『辛いこと』を何度も経験した。しかしそれと同じくらい、翁や媼をはじめとする人間から与えられた人間の『情』にも触れてしまった。
その象徴となるのが、自分が手塩をかけて作り上げた庭を、「こんな私なんか『偽物』よ!」と叫びながら壊すシーン。それは、自分にも人間と同じ『醜い』ところがある、ということを自覚してしまった自傷行為。「人間は醜い」と、一方的なまでに自分と切り離して考えることが出来ず、人間の持つ溢れる『情』にも触れてしまったがために、自分の中に芽生えてしまった、『人間と同じ醜い部分』と対面せざるを得なくなった。
少女に罰を与えた月の住人は、その罰として「人間に『好奇心』を抱くな。抱いてしまった罰として、人間の『醜い部分』に触れ、心の底から後悔しろ」というものだったはず。しかしその思惑とは裏腹に、少女の心は『人間』となってしまう。花びらが舞う桜のように、まるで際限ないかのように伸びる竹のように、何ものにも縛られない風のように、自然に溶け込むような生き方を、当初、少女は、そして月の住人は求めていたのに。


いわばこの作品は、『少女』から『女性』に成長する過程を示している、とも思える。単にそれがかぐや姫だけに対するものではなく、この作品を鑑賞する少年・少女全員に対しても当てはまるに違いない。大人になる、というのは、多かれ少なかれ人間の持つ『醜いもの』に触れる、ということだ。人間の社会に生きるには、それは避けては通れないことだ。
だからこそ、しっかりと『自己』を持ち、磨いていってほしい。この作品の、観客に対し求めていることは、そういうところなのかもしれない。



かぐや姫の物語 公式サイト

2013/12/01

[Travel Writing] 晩秋の海辺のアートシティ

温暖な気候の静岡県は、紅葉の季節もどの県より遅め。12月に入り、北の方では冬支度に入っていても、静岡ではまだまだ赤や黄色の色とりどりの紅葉が見頃。街の中を吹き抜ける涼しいけどちょっと寒い風を受けながら、静岡西部の都市、浜松をPhotowalk。

浜松駅からの秋の風景街灯とアクトシティ浜松浜松城へ向かう道のり


『浜松』という都市名で、おそらく最初に浜名湖を思い浮かべるでしょう。ですが実際に地図を見てみると、浜松は南北に広く広がっており、特に北部は南アルプス山脈の南端に差し掛かっています。また、浜名湖と浜松市街地は実際には結構離れており、市街地から浜名湖への移動は、主に車かバイク(自転車含む)。
今回は市街地を中心にPhotowalkしましたが、浜松市をくまなく歩くのであれば、それこそ1日や2日では無理でしょう。湖、海沿い、そして山と、地形だけでも様々な表情を魅せる都市だと思います。

また、ここは日本が生んだ楽器メーカー『ヤマハ』の出身であり、本社が構えてあります。そこからの派生ということもあって、浜松は音楽の街としても知られており、街の至る所で、音楽にちなんだモニュメントが多く見かけられます。

家康くん

ちなみに、浜松のマスコットキャラクター『家康くん』の袴は、ピアノの柄。ここにも、音楽の街としての小粋な装飾が窺えます。 ^^
しかしその一方で、約80万人という人口と擁していても、商店街の活気は何となくですが今一つ。当然、日曜日、ということもあるのでしょうけれど。折角の風光明媚な街並みでもありますし、静岡の西部ということもあって、名古屋へのアクセスもしやすい。誰もが楽しく暮らせるよう、発展をし続けていってほしいものです。


浜松城公園の錦秋 - 一浜松城公園の錦秋 - 二

浜松城公園の錦秋 - 三浜松城公園の錦秋 - 四浜松城公園の錦秋 - 五

街撮りは、浜松城・浜松城公園、そして浜松駅の界隈を中心に行いました。
マスコットキャラクター『家康くん』にもあるように、浜松市の中心的存在である浜松城は、徳川家康の戦国末期時の居城。江戸時代以降、入城した譜代大名が出生したことから、『出世城』ともよばれ、また天守のお膝元にある浜松城公園は、市民の憩いの場となっています。公園としての規模は少々小振りながら、赤や黄色に染まった広葉樹と、常緑樹の緑のコントラストがとても美しかったです。
竹の小路で出会ったら、大砲レンズを構えたおじさんとも少し会話をしながらミニ撮影教室。さすが、ここに通い尽くしているだけあって、素晴らしい光景を写真に収めていらっしゃいました。 ^^

いつもは古い町並みを中心に選んだ街撮りをしているのですが、今回はどちらかというと現代都市を対象としたPhotowalkでした。とは言え、浜松のランドマークと言ったら『アクトシティ浜松』くらい。その他にもビルはあるものの、『高層ビル』というほどのものはありません。逆に言えば、市街地にビル群が集中しすぎない、調和のとれた街、という見方も出来ると思います。
今回のPhotowalkは市街地が中心であったものの、これだけ広大な都市であるのなら、当然浜名湖や北部の町にも行ってみたいもの。他にどんな表情を持つのか、好奇心がわきます。


最後に、日も暮れてきた頃だし、そろそろ帰りの用意をしようしたところで、浜松駅を挟んで南側の、『浜松科学館』へ。ここは、浜松市の身近な自然から宇宙に至るまで、幅広く科学について展示され、また物理現象を中心とした体験が出来る、いわば子供向けの施設となっています。
とは言え、大人でも十分に楽しむことが出来ます。

その中の、地中の微生物や昆虫を展示するコーナーですが…
何を思ったのか、そこに生きる生物を100倍にした、模擬生物が展示されており、さらにはそれが(単純挙動とは言え)動いているのでして。
つまりですね、100倍の大きさとなったムカデやらミミズやらダニが展示されているのです。これ、観覧した人にトラウマを与えませんかね。 (´∀`;)

2013/11/18

[Travel Writing] 深い信仰心が眠る島 - 後編

大分、長崎の旅の最終日の朝は、やや不安定な天気。青空が見える時もあるものの、時折ザッと降る雨。使いたくはなかったのですが、今日は傘が必要そうです。 (´∀`;)
(昨日も必要になるくらいの雨が降った時があったのですが、幸運にも傘を使う時はありませんでした)

とは言え、そんな一時的に雨が降るような天気であるからこそ、予想もしていなかった光景にも出会えたんですけれどね。旅の最後に見ることが出来た光景として、こんなに素敵な贈り物をいただけたのは、ある意味幸運だったのかもしれません。

福江港にかかる虹

今日も、午後は友人に案内いただいて、福江島の、特に堂崎教会のある奥浦を回ることにしました。それまでは、五島市街地を、その生活の営みを写真に収めながら歩きました。

福江港の朝漁場の一時

五島の商店街の一コマ停泊する船舶 『笑』の暖簾が並ぶ商店街

五島市の人口は4万人強(2010年国勢調査より)。1970年には7万人近くいたのですが、そこから減少傾向に走っています。街を歩くと、とても発展した街のように思います。特に福江港は漁港として、大小さまざまな施設があり、船も多く停泊。
しかし、街を歩くと、ところどころでシャッター街が。この日の前日は日曜日だから、ということもありシャッターが降りていた店も多くありましたが、週が始まってもちらほら。今はまだ子供や学生も多いし、街を歩けば賑わい、活気を肌で感じることが出来るのですが、もしそういった子供たちも大きくなって、より大きく賑わう街を求めて都市部へ移動すれば、島に残るのは年老いた方々だけに。現在、五島市の人口に対する65歳以上の割合は3割強。それが数十年後には5割。全人口の半分が65歳以上になる、という計算になるそうです。
友人から聞くその話は、別に五島市だけの問題ではなく、他の島、そして街でも聞かれることです。決して他人事ではない。人口に対する高齢者の割合が増えていくのは、発展した国、都市としての宿命とはいえ、これまで培ってきたその街ならではの文化や伝承といったものが薄れ、途切れてしまう可能性というのもあります。そういったこれから起こる事象を踏まえ、これから出来ること、どのような選択を取るかを、考えさせるきっかけにもなります。

歴史資料館前の銀杏内闇ダム堂崎教会

福江ダム五島樫の浦のアコウ

福江島と言う、西の端にある島であるという特徴から、この島には宗教に関する様々な伝承が多くあります。その中でも特に、『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』にもある通り、キリスト教に関するものが多く占められているのはご存知の通り。他にも、遣唐使の寄泊と、その過程における仏教の伝来についてもいくつかあります。宗教の伝来、もしくはその中継地点としても、この島は重要な位置を示していたんですね。
とは言え。これらの教会が、実際のところは五島列島の各地にこれほどまでに散りばめられているとは、ちょっと予想外でした。もちょっと市街地に集中しているという手前勝手な目論見が… (´∀`;)
さらに、五島列島の島々も、人が住んでいる住んでいないに関わらず大小さまざまある、というのはご案内した通り。そんなたくさんの表情を魅せる島を、たったの1泊2日で済ませてしまったのは、今回の旅の唯一の後悔したところでもあります。
とは言え、今回の五島市の最大の目的は、友人と昼食を食べること。それが果たせただけでも個人的には大満足。 (´∀`)

この日、最後に訪れたのは堂崎教会。明治6年に建てられたレンガ造りの教会で、現在は教会としての機能はカトリック浦頭教会に移し、堂崎教会は資料館として公開されています。
中には、これまでの豊臣~徳川の政権によって迫害され、苦渋の毎日を過ごしていたことが窺えます。そんな中でも、己の信仰を守るために、あるいは姿を微妙に変え、あるいは巧妙に隠し通すなど、数百年にもわたる頑ななまでの信仰心が感じられます。
しかし因果なことに、世界では、キリスト教は時と共にその姿を変え、頑なに守ってきた姿や方針は、キリスト教が公に認められた時には明治以降、人々を愕然とさせるに至ったわけです。ある人は、その変わった方針に従う人もいるわけですが、それでも、自分たちが守ってきた方針を今でも守っている人もいるわけで、それだけ、自分の心の拠り所である宗教がどれだけ重要な位置を占めているのかが感じられます。


福江から長崎経由で東京へ。帰る際、友人から五島市の名物五島うどんをお土産にいただいました。普通、麺通しがくっつかないようにうどん粉をまぶすわけですが、五島うどんはそれに椿油を使っているとのことで、喉越しもつるつる、食感もモチモチ、本当に美味しいうどんです。
この2日間も含め、改めて御礼申し上げます。
福江島を離れ、長崎空港で東京へ向かう中、既にアンニュイな気持ちが。感動する光景や思わぬところで色々な人と交わり、楽しいひと時を過ごせただけに、離れるのは本当に寂しいなぁ、と。
しかしこういう時は、ちょっと気持ちの切り替えをしています。これは永遠の別れではない。これが出会いの始まりである。生きている限り、また会うことが出来る。それが、次の楽しみにつながる。そう思いながら、長崎を離れたのでありました。

2013/11/17

[Travel Writing] 深い信仰心が眠る島 - 前編

秋の九州の旅の最終目的地は、長崎から西へ100km、大小合わせて140あまりの島々から構成される五島列島最大の島、福江島へ。長崎から飛行機かフェリー(もしくは高速船)で渡ることが出来ますが、比較的欠航の少ない飛行機で渡ることにしました。

きっかけは、そこに住む友人の、SNS上の投稿から。
しかもその投稿は、単に「昼飯食いに来いよ」的な内容でして、普通なら東京に住む人間が昼飯食うためだけに五島へ行くのはもはや道楽中の道楽。というか、一般サラリーマンの当方としてはまずもってあり得ない行動です。しかし、竹田~軍艦島の旅程を組んでいる中で、たったの1泊2日くらいで、折角の九州の旅をそのまま帰るのは勿体ない、かつて3か月連続で九州を行ったり来たりする(それも仕事ではなく私用の旅で!)という、バカな金の使い方になりかねない。どうしよう… と思案していた時の投稿でしたので、すぐさま食いついたのでゴザイマス。 (´∀`;)
当初は、五島市の市街地を中心に、レンタサイクルで回れるところを回って写真に収めていこうかな、という計画でしたが、まさかその友人が、2日間予定を空けていただいているとは思いもせず。島内巡りをご一緒していただいたのです。おかげさまで、自転車では周遊しきれなかったところまで色々と回ることが出来ました。

ということの見返り、というわけではないのですが、福江空港に到着するや否や、まず最初に訪れたのが、香珠子海水浴場。既に11月の冷たい海水で、当然海水浴をするわけではなく(というより濡れてもいいもの持ってきてない…)、やったのは海岸清掃。
しかし当方、学生時代に海岸清掃のボランティアをやっていたこともあり、何ら抵抗もなくあっさりと受諾。とはいえ、到着した時にはあらかた綺麗になっていましたので、あまりすることなかったのですが… (´∀`;)
まぁそこは、無駄に培った体力を使って、撤収作業に勤しんだわけです。




撤収作業が終了し、作業に携わった人たちを囲って豚汁で打上。打上終了後、友人の車に乗せていただいて、島を周遊して回りました。




ご存知の通り、長崎の五島列島は特に教会の多い場所。九州の、さらに西の地方にあるという土地柄もあってか、隠れキリシタンが迫害から逃れるように住む場所だったため、大小さまざまな教会が建てられています。とは言え、それらの多くは、宗教の自由が保証された明治以降のものばかり。まぁ単純に建物だけを見ればそれまでですが、迫害によって苦しんできた隠れキリシタンの、何十年に渡る隠匿の生活は、想像以上に厳しく、筆舌しがたいものがあります。
それを今も色濃く残している史料が、堂崎教会にあるのですが、それは明日回ることにします。

それと同じく興味深かったのが、福江島が織りなす自然と、政治的・軍事的の背景。特に後者は、単に『興味深い』という言葉では片づけられない、というより、むしろそんな言葉で表す方が失礼な部分も含まれていたりします。
一口に福江島と言っても、その海岸線の成り立ちや気候は様々。堂崎教会のある奥浦や大瀬崎灯台がある玉之浦は、リアス式海岸。入り組んだ海岸と切り立った崖、ごつごつした岩肌。外海の荒波にさらされて出来上がった自然の産物は、その自然の恐ろしさを象徴するに容易いものがあります。かと言って、頓泊海水浴場のように、穏やかでしかも干潮になると沖の方まで歩いていける、つまり満潮になっても、子供でも結構な沖の方まで行くことが出来るところまであったりします。多様な海岸の趣を一度に感じる、稀有な例でもあると言えます。
そんな風土だからか、何と本土では希少で絶滅危惧種にも指定されている生物が、なんとここで豊富に生息している、なんてことも。そんなこと、その友人に案内してもらわなければ、絶対に分からなかったことです。
あ、勿論無断で採取・捕獲は禁止されておりますので悪しからず。

同じく、友人から聞いた話で興味深かったのが、福江島の政治的・軍事的な立ち位置。詳しい話はこのBlogでは避けますが、聞けば聞くほど、そんな話は東京では聞かない、ネット上ですら、注意深く探らない限り、トピックスにすら挙がらないものばかり。興味深かったことと裏腹に、自分の現在の情勢の無知っぷりに愕然としたものです。
でも、それらの情報がたとえ目にし耳にしていたとしても、きっと「ああ、そうなんだ」と単なる情報取得だけに終わっていたような気がします。これは、現地に行かなければ実感出来なかったこと。何て言っても、福江島のすぐそこは東シナ海。外国からの様々な影響を一番に受けるところなのです。東京でのうのうと生きているだけでは、分からないものがあります。
とは言え、毎日が緊張の連続ではそれこそ精神上よろしくありませんので、福江に住まう皆さんは本当に大らか。そして、その島に住む人たちならばこその、芯の強さがあるように垣間見えました。


夜は、一度ホテルにチェックインした後、友人のお勧めのお店で夕食。福江島で獲れた魚に舌鼓を打ちながら、秋の夜長を楽しみました。

2013/11/16

[Travel Writing] 近代産業が遺したモノ - 軍艦島

『竹楽』の余韻も冷め止まぬ早朝。いよいよ肌を突き刺すような寒さの季節の到来を予感させる空気の冷たさを感じてきました。何故こんな朝早くに豊後竹田駅から移動しなければならかいか、というと、昼には長崎に到着したかったから。外はこんな寒さでも、電車の中に入れば、まだ暖房が入っていなくてもちょっとはマシになります。
阿蘇山を突き抜け、熊本~鳥栖を経由して長崎へ。その道中、鳥栖駅で『ななつ星in九州』に遭遇! まだ新しい車両名だけに、放たれる輝くばかりの車体に、しばし凝視しておりました。一泊二日、もしくは三泊四日で九州を周遊できる列車。そのお値段はこのブログに書くまでもない、まさにセレブ御用達。下々の者共が容易に手の届くものではないのです。 (´∀`;)

指をくわえながら、一路長崎へ。

しかし今回の長崎への旅は、いつも以上に天候の動向にはらはらしながらの移動でした。何せ今回の長崎の旅は、軍艦島へ渡ること。しかし聞いた話によると、1m程度の波で上陸を諦め、引き返すことがあるとか。その話を聞いた時は、半ば冗談と受け取っていましたが、実際のところそれは恐らく本当の事だというのを身に染みて理解した次第です。
この日は、まだ波も高くなく風もそんなに強くなく、比較的穏やかな環境なんだそうです。『まだ』。それでも、クルーズ船が長崎港から出てしばらくしないうちに、船が大きく上下に揺れるように。長崎港の内海ですらこんな状況ですから、女神大橋を抜けて外海に出た時の風・波の大きさは推して知るべし、といったところでしょう。
ちなみに、長崎近海の海が比較的穏やかなのは、まだ梅雨が来る前の5月下旬~6月中旬くらい。梅雨時や台風シーズンは言わずもがなですが、その台風が過ぎて穏やかな日々が続きそうな10月~11月ですらも、渡航できないほどの波が高い日が多いそうです。実際、僕が行った日の丁度一週間前は、天候こそ良かったのに、波が高くて途中で引き返したとか。
とにもかくにも、無事、軍艦島にたどり着くことが出来ました。

軍艦島 - 一軍艦島 - 二

軍艦島 - 三軍艦島 - 四

軍艦島の正式名称は『端島』。かつて、歩けば20分くらいで一周出来てしまう小さな島に、最大で5000人もの人が暮らしていました。この近海から採れる石炭が、日本のエネルギーを支える資源として大いに持て囃され、まるでゴールドラッシュを夢見るかの如く、多くの人がこの島に住んだんだそうです。
当然、これだけの人間が住めば済む場所など一瞬で枯渇しますから、高層マンションが建つのは当たり前。子供たちの遊び場としての広場が確保できるわけもなく、もっぱらマンションの屋上で遊んでいたそうです。
しかし、石炭から石油へのエネルギー政策の転換により、石炭採掘の持続が可能なのに、敢え無く閉山。島民は全て本土へ引き上げ、端島は無人島となります。二度と戻らない島の建物は、一部は取り壊されたものの、全てが取り壊されたわけではなく、今でもこうして、かつての生活の面影を僅かに残しながら、残骸として横たわっているのです。強い風による風化、台風による建物や斜面の崩れを受け、徐々に蝕まれていくのを横目で見ながら     

なんて、まるで感傷に浸ったかのような語り口調で書いてみたものの、廃墟大好き人間の当方としては、この威容を目の当たりにして、興奮せずにはいられないのです! ( ゜∀゜) ウッヒョー!
しかし、そんな興奮も、今回のナビゲーターである『軍艦島を世界遺産にする会』理事長の坂本さんの話を聞いて、下火になっていきます。というのも、坂本さんはこの軍艦島出身。政府のエネルギー政策の転換によって翻弄され、これまでの生活を捨てることを余儀なくされた、ということを切々と語ります。坂本さんはその時高校生。慣れ親しんだ故郷を捨てなければならない、廃墟となった故郷を見るのは忍びない。しかしその廃墟を、捨てよと命じた政府が遺産に登録する、という動きの矛盾に対する憤り。その心情はいかばかりか。
と思ったものの。ん? ちょっと待って?
石炭の採掘を、戦時中の軍国主義的な背景柄、まるで奴隷として働かされた、というのならともかく、高層マンションも建ち、どこよりも家電の普及率が高く、島内ヒエラルキーがあるとはいえむしろ当時の一般家庭から見れば裕福な方であった端島の生活。ということは、ここに石炭採掘に渡航した人たちは、どちらかと言えば豊かな暮らしを求めてやってきたわけだ(中には命令で来た、と言う人もいるかもしれないけれど)。つまり、自分たちでこの島に『選んで』来た、ということ。それは、この島と近海の石炭がたとえ枯渇して引き上げなければならない状況下にあっても、全て『選んだ』ことによる『責任』も全て含まれている、ということになる。
政府がエネルギー政策の転換を図ったのは、石油の方が効率性や価格面などで、石炭よりもメリットがあるから。より安く、より効率的な方策を選ぶのは、別に政府でなくたって、人間誰しもが望むことじゃない? それを、「政府のエネルギー政策の転換が~」と叫んでしまうのは、それこそ責任転嫁になるんじゃないのか?
そう思った次第なのです。
もし、坂本さんが、当時高校生ではなく石炭発掘の業務に携わっていた人であれば、これほど説得力の無い話はないと思いました。まだ、自身の進路もままならない高校生の時に、島を離れざるを得なかったからこそ、その悲痛の叫びに転じたのかもしれません。

しかし僕としては、それ以上に憤慨する出来事が、廃墟への落書き。
長崎市の許可を得ての特別なツアーでもない限り、指定された場所以外への立ち入りは原則出来ません。観光で軍艦島に入ることが出来るのは、ほんの僅かな領域だけなのです。にも関わらず、立ち入り禁止の区域に書かれる、『○○大学●●サークル 参上!』等の落書きの数々。もしこのブログを見たそこのお前、歯を食いしばって前に出てこい、と言いたいくらいです。
落書きを消すことは出来ても、その作業によって廃墟として残すべき個所が崩れるかもしれない。そうなると、その落書きを含め、それを遺構として遺さなければならない。『軍艦島を世界遺産にする会』のジレンマは、こんなところにも出てしまっているのです。


今回の軍艦島ツアーは、喜び勇んで行く予定だったものが、色々な意味で考えさせられるツアーとなりました。しかし、上陸時間がほんの1時間足らず、というのがやはり物足りないところ。でも、これからも観光客が増えるとなると、そういうわけにもいきませんものね。

2013/11/15

[Travel Writing] 竹の灯りが織りなす幻想 - 竹楽

「日本史の中で一番好きな時代は?」

と問われたら、真っ先に挙げるのが明治時代。それも、『坂の上の雲』の影響が非常に大きい。様々な紆余曲折があるとはいえ、始めて身分の高低なく『国家』というものを意識始め、これまでも国と国との交渉ごとはあろうとも、それでも一部の国との間だけにすぎず、広く遍く『国際』というものを意識し始めた時代は無かったと思う。
明治維新を遂げ、僅か数十年で近代国家の仲間入りを果たした日本。その急激な成長劇の中を、日清戦争~日露戦争を主軸とした舞台で生きた人物を描いているのが、『坂の上の雲』である。彼らの、日本が世界に肩を並べるために費やした努力の数々が主に描かれているところであるが、そんな彼らを支える、『明治時代』という気質が好きになった。完全とはいかないまでも、それまでの抑圧から解放され、自由を謳歌する一方で、不慣れなよちよち歩きの赤ん坊が、大海原に向かって泳ぎだす。大きな危険を冒す可能性がありながらも、どこかワクワクさせる高揚感がある時代と感じた。

そんな『坂の上の雲』の中で、最も興味を引いた人物が、竹田市出身の軍神、『広瀬武夫』だ。ドラマで藤本隆宏さんが演じたから、というのもあるけれど、大きさと真っ直ぐさを兼ね備えた男の生涯に惹かれたところが大きい。『坂の上の雲』を読破後、独自に彼の本を読み始めたくらいだ。
そんな、彼が生まれ育ったところはどんなところだろう、と思いを馳せながら、大分空港に到着。大分駅を経て、竹田市に向かった。
実は、今回の竹田市は、市街地を写真に収めながら歩くというのと他に、絶対に見たいと焦がれていたイベント『竹楽』がある。それは、日も暮れた夜にならないと始まらない。

錦秋の岡城址 - 一錦秋の岡城址 - 二滝廉太郎像

史跡好きとしては、竹田に到着したらやはり訪れずにはいられないのが、岡城址。標高325mの天神山の山頂に築かれた山城でありながら、その規模は大きく、特に崖のように急峻で且つ規模の大きな石垣は、その威容だけでも息を呑むのに、当時の、こんな場所にこれだけの石垣が作れる、という技術力の高さに感嘆せずにはいられない。
岡城は桜の名所として知られているが、紅葉も実に見事である。若干時期が早かったようであるが、特に西中仕切跡が素晴らしかった。ここは、外部へ迫立つ石垣の特に美しいところでもあり、紅葉の美しさも相成って一層美しさが際立っていたように思える。
そして、本丸跡には、幼年時代をここで過ごした滝廉太郎の像がある。23歳と言うあまりにも若くして亡くなった廉太郎。100年近く経過した今でも歌い続けられている曲を世に出すほど、己の生命を燃焼し尽したのだろうか。彼の代表作である『荒城の月』のモチーフは諸説あるが、この岡城が有力な候補として挙げられている。

史跡そのものの広さもあるが、史跡やそれを取り囲む自然の、季節の美しさもあり、2時間近くもここに滞在してしまった。本来であれば後悔するところだ、これだけの美しさを誇る城跡だ。これだけ時間を掛けてしまう魅力に溢れている。ただ、岡城を下りた時、まだ午後も少し時間が経過したばかりなのに、陽に傾きが出てきているところが、晩秋の訪れを感じさせるとともに、少々急ぎ足で街中を歩きたい、という気持ちを駆り立てられてしまう。

竹細工の土産物旧竹田荘

武家屋敷通り広瀬武夫像

竹田市は、京都や札幌に比べればだいぶ小規模ではあるものの、それでも格子状に入り組んでいる道は、しばしば訪れる人を迷わせる。だが、折角来たのだから、そういった『迷う』というのも旅のだいご味。色々な場所を行ったり来たりして、その街の雰囲気を味わってみる。
竹田市は、その市の名前に冠するように、竹の産地として有名で、竹細工を売っている土産物店が多い。さらに、『竹楽』に使う灯籠用の竹が、街中に並ぶ。もっとも、『竹楽』は一部の社寺や特定の会場等で実施されるものと思っていたが、おびただしい数の灯籠用の竹が街中に立っているあたり、特定の施設の祭りではなく、町全体を挙げての祭りだということを、ここに来て初めて知る。しかし、そのせいもあってか、一部の施設は早々に開業時間を切り上げ、中には立ち入ることも制限されてしまう場所もあるため、注意が必要だ。

そして、この旅の目的の一つである広瀬神社にも立ち寄った。竹田市の戦没者を合祀する神社であり、軍神・広瀬武夫を主祭神としている、比較的新しい神社だ。広瀬武夫の無骨なまでの人生とは別に、神社境内には、穏やかな空気に包まれていた。


日も暮れ、徐々に街から明るさが遠のいた時、『竹楽』のイベントが始まる、住人の手によって竹の灯籠の中のロウソクに火がともされる。勿論、まだ明るさを残す自分であれば、それはただの小さな光に過ぎない。やがて陽の光がなくなった時、文字通りこの世のものかと思えるほどの幻想的な空間が現れる。

竹楽 - 観音寺竹楽 - 武家屋敷竹楽 - 広瀬神社

竹楽 - 武家屋敷竹楽 - キリシタン洞窟礼拝堂

東京に住む人間にとって、大分なんて、それも竹田市なんて、仕事でもない限りそうやすやすと来れるところじゃない。ましてや、このイベントのために毎年のように日程を調整するとなると、至難の業である。たとえ来ることが出来たところで、雨が降って中止になるかもしれない。
僕が何かに憑りつかれるように撮影する時、それは、もうこの光景には二度と会えないかもしれないことの覚悟と恐怖を込めてでもある。これだけの、息を呑むような光景は、一生に一度出会えるかどうかにもかかっているかもしれない。目で見たものを頭の記憶に、感じたものを心の奥底にしまっておくだけでも物足りない。全てを切り取りたいと思わんばかりに、撮影の限りを尽くした。
特に、広瀬神社の境内へ登る階段、上を見上げると、丁度階段の真上に、月が煌々と照らされていた。この日が平日だということをこれ程感謝したことはない。もし土日祝日だったら、撮影スポットに近づくことすら出来なかっただろうから。

そんな竹楽のイベントの中で、観音寺は正に見せ場と言う意味では美しかったが、『場の美しさ』を表現していたのは、まぎれもなく『キリシタン洞窟礼拝堂』だったと思う。
ここ竹田でも、豊臣秀吉によるキリスト教の弾圧によって大勢のキリスト教信者が隠れるように住んでいた。その傍らで、自分たちの信じる信仰を頑なに守り続けていた。その面影を残すのが、洞窟礼拝堂。町のはずれに、まるで俗世から隠れるように、ひっそりと今でもそこにある。神を湛える重厚感のある音楽が、ささやくように流れる中で、闇の中を揺らめくロウソクの灯りを見ながら、当時の苦しい世の中を懸命に生き抜いてきた人を思いはせずにはいられなかった。

一通り撮影も終り、冷たい風に冷え切った身体を温めるため、出店で温かい食べ物を頬張り、どこからか流れる音楽に耳を傾けながら、深まる秋の夜長を楽しむ。最高とも言える贅沢な夜の過ごし方が、ここにあった。