2017/05/05

[Exhibition] 写真展『城南工房Photoworks#6「上信電鉄α/120」』

写真展『城南工房Photoworks#6「上信電鉄α/120」』へ観覧に行った。

出展期間:2017年5月5日~5月7日
場所:高崎シティギャラリー 第4展示室
出展者:石田充俊、大橋和幸、岡田竜史、倉科一浩


約15m×約7mの長方形という、比較的小さなギャラリーであったが、4人の出展であれば充分な広さであったと思う。
『上信電鉄』がタイトルに冠されているものの、その切り口は、典型的な『撮り鉄』による作品はほとんど無い。あるのは、所謂『日常』を切り取った風景。上信電鉄の駅はもちろん、その駅に設置されている看板や黒板などの小物類、ベンチ・掲示物などが主体になっている作品が多い。一見すると『作品然』としてはいないが、無機質で真っ白なギャラリーが、あたかもその駅のその場所にいるような感覚を覚える。当たり前のようにあるからこそ見逃されがちになるが、長年利用してきた、もしくは愛着があるからこそ、見えてくるものがあると思う。

一方、倉科一浩さんの作品群は、駅や駅内の備品ではなく、鉄道写真らしく、鉄道が主体の作品がほとんどだった。とはいえ、主役として鉄道を据えてはいるものの、いわば風景写真で、鉄道写真の雑誌等に掲載されている典型的な鉄道写真の作品群と言えよう。彼は全ての作品を『RICHO GR』で撮影したと言い、プリントの際にインクが足りなくなった、と言っていたが、それを逆手に取ったプリントの仕方はまさに逆転の発想と言えた。まるでフィルムで撮影したかのようだった。訪れる客も、「フィルムで撮影したのか?」と聞くらしい。プリントの際の状況を逆にうまく活用する方法を思い知らされた。
彼の作品群は、とりわけ奇をてらったところは無い。しかし、多くの人が足を止め、「長年この近辺に住んでいたけれど、こんなところがあったんだね」「この場所はこの季節になるとこんな光景になるんだ」「しばらく見ていない光景だったけれど、昔と本当に変わらない」といった会話が弾んでいた。彼の作品は、作品の構成や美しさをこれ見よがしに提示するのではなく、見る者と対話する、あるいは見る者の対話を引き出すためのコミュニケーションの媒介として機能していた。『対話のための展示』『対話するために展示する』という発想は、彼にとって狙ったものなのか副次的なものなのかは分からないが、こうした、展示者と観覧者、それら同士、果ては展示物に対しても対話を促す展示というのは、目に鱗であると同時に、写真に限らず、『展示を楽しんでもらう』という手段として非常に魅力的ものだと思う。そういった作品を生み出していけたらいいと思っている。

今回の展示会の主催である岡田竜史さんの作品には、前出の駅の日常だけでなく、そこを利用する人々が生き生きと映し出されている。これは、長年写真家としてそこに通い、そこを利用する人たちと触れ合う、ということをしなければ撮れない作品群なのだろう。上信電鉄界隈に住む人の特権でもあると思いつつも、長年の努力の積み重ね(と言っても、努力然で向き合っているのではなく、自然体として向き合って積み重ねてきたのかもしれない)の賜物だと思う。
人の生き生きとした表情、それも『モデル』ではなく、その駅を利用している『その場にいる人』の『その時の表情』を取るには、これまで多く通い詰めたことによる経験や、人を撮るにあたって培ってきたもの、そして辛抱強さが必要だと思った。自分自身の作品を見返してみた時、それが圧倒的に足りないことに気づかされた。当然、それを一朝一夕で追うことはできないことも知らしめられた。だが、それは一方で、『本当に自分が撮りたいもの、切り口は、一朝一夕では見出すことは出来ない』『何度も通い、自分の目でよく凝らしながら、観察しながら見出していく』という、写真を撮る前の切り口の見つけ出し方を、改めて勉強しようと思った一瞬でもある。

2017/01/28

[Review] 未来を花束にして

邦題は『未来を花束にして』であるが、そのような名前からは想像できないほど、過激で暴力的。女性に参政権を付与するために手段を択ばず奔走し、時には生命と人生をかけながら奮闘する生き様を描いている。
既に多くの国で女性に参政権が付与されているからこそ、当時の女性に対する惨状や、そんな状況を変えるために行動する女性たちの『過激さ』には閉口するかもしれない。しかし逆の視点をすれば、何故閉口するのかを振り返ると、それだけ現在我々が生きる社会が恵まれていることの証左であると言えよう。無論、今もどこかで何かしらのデモンストレーションは行われているが、警察官が帯同することもあってか、そのデモンストレーションには、一種の『熱』は帯びていないし、「どうせ変わらないだろうけれど、変わったら儲けもの」程度の感じでしか否めない。
しかし一方で、「何が何でも変えなければならない」という気概を持った活動は賛否両論だ。過激な行動で得るものもあれば失うものもある。むしろ失われることの方が大きいだろう。本作の主人公が、仕事を追われ、一方的な離婚を迫られ、愛する息子は同意なく養子に出され、住む家も無ければ、近所付き合いも失われる程に。最初はちょっと興味があるから、という理由で参加した婦人参政権運動が、何度逮捕されても、何を失っても、それでも這い上がり、また参加するに至る彼女の気概は、一体どこから生まれてくるんだろう、と考えてしまう。

  「もし私たちの子供が『娘』だったら、どうなってた?」
  「洗濯工場で働いているだろう、君と同じように」

そして主人公は、自身と同様に、自身よりも若い女の子が、劣悪な環境の洗濯工場で働かされ、雇い主のセクハラに毎日のように悩まされ続けている。どんな辛酸を舐めても這い上がった主人公を動かし続けた動機は、「私自身の身に変化が起きなくても、私の後に生きる女性に、このような目に合わせたくない」という『絶え間なく続く連動』なのかもしれない。

  「お前たちを全員逮捕すれば、この運動は終わりだ」
  「この世界には女が半分いるのよ。それらを全員逮捕できる?
   私たちが逮捕されても、運動は続く。私たちの勝ちよ」


最終的にこの運動は、女性参政権が付与されることで、彼女たちの運動は勝利に終わる。しかし、ラストシーンは、それにかけた女性たちの様々な『喪失』が矢継ぎ早に繰り広げられ、決して『ハッピーエンド』の構成にはなっていない。何ともしこりの残る終わり方だった。個人的な考えではあるが、恐らく、『ハッピーエンド』な終わり方にしたくなかったのだろう。彼女たちの壮絶な運動が、「夢が叶ってよかったね、めでたしめでたし」で終わるなら、それこそ彼女たちの(生命を含む)かけた全てが軽んじられるに違いないし、また今もなお様々なところで、女性蔑視、女性差別は根強く残っており、それに対し目を逸らす要因の一つになりかねなかったからかもしれない。制度的にイギリスは婦人参政権が与えられたとは言え、「まだこの活動は世界的に今も尚続いている」ことを示したかったに違いない。それこそ、この作品が表現したかった『絶え間なく続く連動』があるように思う。
また、現代のデモンストレーションを振り返ってみると、彼らの運動に熱を感じないことの要因に、『あくまでその時限り』という、連動性が無い、もしくは欠けていることも一つあるかもしれない。勿論、ただそれだけで彼らの運動を『是』とするわけではないが。
これから先、「何をかけても、何を失っても、『それ』は本気で世界を変えたい、変えねばならない『もの』か」という問いかけに、自身が直面するだろうか。その時、自分自身は何を選ぶだろうか。鑑賞後、そんな気持ちが心の中を過った。

2017/01/25

[Review] 沈黙 -サイレンス-

巨匠 マーティン・スコセッシ監督が30年近く企画として温めていたという、遠藤周作の歴史小説『沈黙』を映画化した作品。
17世紀の長崎が舞台で、隠れキリシタンが息を殺すように自分たちの信仰を繋いでいく。理不尽な世界に生きながら、目に見えないものと分かっていながらも『神(=デウス)』という存在に縋らずにはいられない。その一方で、いつ自分と自分の家族に、『切支丹』という身分が密告や裏切りによって白日に晒され、苦痛と汚辱を浴びせられるか分からない。そんな、庶民にとっては身も心も切迫極まる世界。
そこに、ポルトガルからやってきた宣教師が現れる。自らが尊敬して止まなかった宣教師が棄教したと聞き、その行方と真相を確かめるために日本にやってきたものの、『パードレ』として信者を導く傍らで、弾圧の場をこの目で何度も目に焼き付けられる。己がこれまで魂に刻み、疑うことすらしなかった『信仰』と、目の前に繰り広げられる見るに堪えない『現実』の狭間で、文字通り魂を引きちぎられる程にもがき苦しみ、それでも尚、『救いの手』を、自己の『外側』にある『何か』に縋ろうとする。しかし、その『何か』の『声』は、一向に聞こえることはない。

この作品は、鑑賞した後の「鑑賞した」という、一種の『鑑了感』といったものがまるで無かった。本作品は主人公が語り部であり、ラスト、主人公は息を引き取るものの、あくまで作品の物語として『主人公が』受けてきたもの、感じてきたものが終わったに過ぎず、人間が生き続ける限り、『それ』は『決して終わることがない』、絶えずその時代を生きる人間全てに投げかけられる、と言われているかのようだ。そして『それ』とは、『矛盾』であったり、『理不尽』であったり、それを受けなければならない、耐えなければならない『苦悩』といったものが当て嵌まると思う。
作品・登場人物に対する起承転結の『結』はあるが、作品が訴える本質自体を『結』にはしない。何故なら、それは現実世界を受ける人間一人一人が、死ぬまで『社会』と『他者』との間で関係性を築き維持していく以上、避けては通れない、と訴えているかのようだ。

原作となった歴史小説『沈黙』、度重なる批判の渦中に晒された。特にカトリックからの反発は洋の東西を問わず多数出現した。長崎では禁書にするほどだった。そして今もなお、本作品に対し批判的だったり皮肉を込めた評価が、インターネット上で相次いで囁かれているのを目にする。
私の中では、そのような批判が出来るのは、ある意味『幸せ』であると思う。その『幸せ』には、私なりの『皮肉』も込めている。『現代』という自由な言論が可能な時代に身を置いていることは勿論、原作の作者である遠藤周作や、マーティン・スコセッシ氏のように、宗教と現実の差を思い知らされたことの愕然、『外側』にある『身のよりどころ』が『絶対的存在』ではなく、ましてや意味という意味すら見いだせないこともある、ということの苦悩等、そういったことは一度もなかった、あるいは見ようともしなかったのではないか、と勘ぐってしまう。「どちらを選んでも、必ず己の魂が傷つく」という極限の場面に身を置く機会が少ないからかもしれない。
映画作品ではほとんど表現されていないが、原作では、イッセー尾形が演じる井上筑後守も、浅野忠信が演じる通辞も、多かれ少なかれキリスト教に身を置いた。それが残酷なまでの切支丹の弾圧と拷問を実施している。様々な理由があるとは申せ、それも彼らなりに出した答えの行く末、彼らの『内側』にある『自己の魂』に問いかけた選択なのかもしれない。

本作との関係性が語られているわけではないが、漫画『ぼくの地球を守って』にも、同様の描写を彷彿させる。主人公の一人の前世は、『キチェ・サージャリアン』と呼ばれ、彼らの神である『サージャリム』の御使いとされる。しかし実際は、彼らは人外の生物と意思疎通が出来ること、彼らの歌声が植物を異常成長させることくらいで、(漫画の中での)星間戦争という、もはや人間が手に負えない事態には文字通り『何も出来ない』。「歌って、ただ泣くだけ」という台詞が印象的だった。そして、そんな彼らも例外なく『人間』であるがゆえに、「人間だったら、辛い時、優しくしてくれる人に身を寄せてしまう」とも考える。


「どちらかが正しく、どちらかが間違い、という選択肢は無く、どちらも正しくもあり間違いでもある。但し、どちらをとっても魂は傷つくし、その傷は生涯を通して苦痛を与え続ける」
「どちらかの選択で、善者/悪者に分けられるものではない。ましてや強者/弱者にも分けられるものではない。それでも、人は善者/悪者、強者/弱者に分けたがり、利己的・私欲的と知りつつも己のための選択をし、それに対する許しを乞いたがる」

鑑賞後に、監督や演者のインタビュー記事を読み、彼らが何故、このタイミングでこの作品を世に出したかを咀嚼してみる。そこには、「最後に決めるのは、外側にある何者でもなく、自己の内側の心と魂」であると語っているように思う。混沌として先が見えず、様々な外的要因に振り回され、疲弊が繰り返されるのは、性質は違えど、今も昔も同じだと思う。
だからこそ、本作品のイエス・キリストは、人間を、ともすれば画一的な方向へ導く存在ではなく、どんな選択をしどれだけ魂が傷つこうとも、その傷は、私も共に受ける、と言わんばかりに存在として描かれているのかもしれない。