2017/01/25

[Review] 沈黙 -サイレンス-

巨匠 マーティン・スコセッシ監督が30年近く企画として温めていたという、遠藤周作の歴史小説『沈黙』を映画化した作品。
17世紀の長崎が舞台で、隠れキリシタンが息を殺すように自分たちの信仰を繋いでいく。理不尽な世界に生きながら、目に見えないものと分かっていながらも『神(=デウス)』という存在に縋らずにはいられない。その一方で、いつ自分と自分の家族に、『切支丹』という身分が密告や裏切りによって白日に晒され、苦痛と汚辱を浴びせられるか分からない。そんな、庶民にとっては身も心も切迫極まる世界。
そこに、ポルトガルからやってきた宣教師が現れる。自らが尊敬して止まなかった宣教師が棄教したと聞き、その行方と真相を確かめるために日本にやってきたものの、『パードレ』として信者を導く傍らで、弾圧の場をこの目で何度も目に焼き付けられる。己がこれまで魂に刻み、疑うことすらしなかった『信仰』と、目の前に繰り広げられる見るに堪えない『現実』の狭間で、文字通り魂を引きちぎられる程にもがき苦しみ、それでも尚、『救いの手』を、自己の『外側』にある『何か』に縋ろうとする。しかし、その『何か』の『声』は、一向に聞こえることはない。

この作品は、鑑賞した後の「鑑賞した」という、一種の『鑑了感』といったものがまるで無かった。本作品は主人公が語り部であり、ラスト、主人公は息を引き取るものの、あくまで作品の物語として『主人公が』受けてきたもの、感じてきたものが終わったに過ぎず、人間が生き続ける限り、『それ』は『決して終わることがない』、絶えずその時代を生きる人間全てに投げかけられる、と言われているかのようだ。そして『それ』とは、『矛盾』であったり、『理不尽』であったり、それを受けなければならない、耐えなければならない『苦悩』といったものが当て嵌まると思う。
作品・登場人物に対する起承転結の『結』はあるが、作品が訴える本質自体を『結』にはしない。何故なら、それは現実世界を受ける人間一人一人が、死ぬまで『社会』と『他者』との間で関係性を築き維持していく以上、避けては通れない、と訴えているかのようだ。

原作となった歴史小説『沈黙』、度重なる批判の渦中に晒された。特にカトリックからの反発は洋の東西を問わず多数出現した。長崎では禁書にするほどだった。そして今もなお、本作品に対し批判的だったり皮肉を込めた評価が、インターネット上で相次いで囁かれているのを目にする。
私の中では、そのような批判が出来るのは、ある意味『幸せ』であると思う。その『幸せ』には、私なりの『皮肉』も込めている。『現代』という自由な言論が可能な時代に身を置いていることは勿論、原作の作者である遠藤周作や、マーティン・スコセッシ氏のように、宗教と現実の差を思い知らされたことの愕然、『外側』にある『身のよりどころ』が『絶対的存在』ではなく、ましてや意味という意味すら見いだせないこともある、ということの苦悩等、そういったことは一度もなかった、あるいは見ようともしなかったのではないか、と勘ぐってしまう。「どちらを選んでも、必ず己の魂が傷つく」という極限の場面に身を置く機会が少ないからかもしれない。
映画作品ではほとんど表現されていないが、原作では、イッセー尾形が演じる井上筑後守も、浅野忠信が演じる通辞も、多かれ少なかれキリスト教に身を置いた。それが残酷なまでの切支丹の弾圧と拷問を実施している。様々な理由があるとは申せ、それも彼らなりに出した答えの行く末、彼らの『内側』にある『自己の魂』に問いかけた選択なのかもしれない。

本作との関係性が語られているわけではないが、漫画『ぼくの地球を守って』にも、同様の描写を彷彿させる。主人公の一人の前世は、『キチェ・サージャリアン』と呼ばれ、彼らの神である『サージャリム』の御使いとされる。しかし実際は、彼らは人外の生物と意思疎通が出来ること、彼らの歌声が植物を異常成長させることくらいで、(漫画の中での)星間戦争という、もはや人間が手に負えない事態には文字通り『何も出来ない』。「歌って、ただ泣くだけ」という台詞が印象的だった。そして、そんな彼らも例外なく『人間』であるがゆえに、「人間だったら、辛い時、優しくしてくれる人に身を寄せてしまう」とも考える。


「どちらかが正しく、どちらかが間違い、という選択肢は無く、どちらも正しくもあり間違いでもある。但し、どちらをとっても魂は傷つくし、その傷は生涯を通して苦痛を与え続ける」
「どちらかの選択で、善者/悪者に分けられるものではない。ましてや強者/弱者にも分けられるものではない。それでも、人は善者/悪者、強者/弱者に分けたがり、利己的・私欲的と知りつつも己のための選択をし、それに対する許しを乞いたがる」

鑑賞後に、監督や演者のインタビュー記事を読み、彼らが何故、このタイミングでこの作品を世に出したかを咀嚼してみる。そこには、「最後に決めるのは、外側にある何者でもなく、自己の内側の心と魂」であると語っているように思う。混沌として先が見えず、様々な外的要因に振り回され、疲弊が繰り返されるのは、性質は違えど、今も昔も同じだと思う。
だからこそ、本作品のイエス・キリストは、人間を、ともすれば画一的な方向へ導く存在ではなく、どんな選択をしどれだけ魂が傷つこうとも、その傷は、私も共に受ける、と言わんばかりに存在として描かれているのかもしれない。