2013/03/11

[Travel Writing] 東日本大震災から2年、これまでと、これから

少しずつ暖かくなっていっている東京。まだ薄手の服を着るには肌寒いものの、ジャケットを纏うには暖かい感じて始めてきた東京。春は、少しずつ近づいてきている。
その一方で、東北の春はまだ遠い。それでも、1月に訪れた時と比べ、刺すような冷たさは少しずつ薄れていっているようにも思える。明けない冬は無い。そんなことが頭に過る。

気仙沼の朝。まだ薄暗い市街地に降り立った。朝の、人気のない静かな街並み。街に朝の活気が出始めるにはまだ少し先の、まだ眠りについている穏やかな空気が包む。降り立った場所の周囲を見渡す限りでは、震災の爪痕は見当たらない。まるで何もなかったかのような日常が、そこにある。しかし、そこにある『かのように見える』に過ぎない。気仙沼港の方へ歩く。そこには、無残にも家の土台しか残されていない敷地があった。かつては街の中心的機能を担っていたビルも、多くが被災し、今、取り壊しの最中にある。


あれから、2年。
2年が経過した。2年しか経過していない。しかし、2年も経って、未だ、この惨状なのだ。よしんば、家屋全てが押し流されていなくても、津波によって家の中はめちゃめちゃになり、様々な残骸がうずたかく積まれ、やはり未だに片づけられている目途は見られない。玄関の扉や窓に戸板が打ち込まれているものもある。住みたくても住めない。家としての、家屋としての機能を果たせない。ただ、そこにあるだけ。驚異的な自然の猛威に、人間の、そして人間の造ったものなど、全くの無力であると打ちのめされる。

気仙沼でも、特に津波の脅威にさらされたのが、南気仙沼駅の周辺だった。多くの建物が押し流され、やはり家屋の土台のみが無残に残されている。津波に飲み込まれず、ただそのまま立ち尽くしている店の看板や駅の残骸が、僅かにかつての面影を偲ばせるが、それでも、もうそこにあり続ける理由は、無いに等しい。
また、岩井崎に向かう海岸沿いでも、津波によって被害を受けた場所は数多くあり、今でも、転覆したボートの残骸や積まれているところもある。




その一方で、気仙沼の市街地や、大船渡は、震災によって被害を受け、破壊された箇所が多く残っているものの、街としての機能はだいぶ復興しているようにも見える。2年と言う時は、被災者にとってはまだまだ短いが、それでも、少しずつでも着実な復興がなされているのだろう。

が。そんな僕の楽観的な考えを一気に覆したのは、陸前高田市に降り立った時だ。

「何だこれは。こんなことがあっていいのか」

それが、陸前高田市に降り立った瞬間に口にした言葉だ。
何も無い。何も無くなっているのだ。きっとここには、街としての息吹がそこかしこにあったに違いない。しかし、陸前高田市の、海岸沿いから小学校に至るまでの一帯は、文字通り何もなくなっている。全て、津波が押し流してしまったのだろう。あるのは、2年経っても未だうず高く積まれる瓦礫と、石や盛り土だけ。陸前高田市の惨状は、これまでにも報道等で見てきた。それでも、実際にその光景を目の当たりにすると、津波の猛威・恐ろしさを改めて感じるとともに、地震が発生し津波が街をのみこんでいく時に人々が口にした言葉、「高田は終わりだ…」その意味を一瞬にして理解するには余りある光景である。



この日は、良く晴れていたものの空気が乾燥し、風も強く、土木作業による土埃が街中を充満していた。建物が無いから、土埃を遮るものが無い。アスファルトの道、コンクリートの土台ですら、その土埃と同化して、時折どこに道が連なっているのか分からなくなるくらいである。
通りゆくトラックや車も、下半分は土埃で汚れている。どこの車も。家もない。ガソリンスタンドもない。ましてや水道設備だって。車を洗う施設すらも無いのだ。勿論、そんなことをしていられるほどの余裕も、無いのかもしれない…

「未だ復興する目途が立っていない」と、連日報道されている。
しかし、この惨状を見ると、たとえ復興するための十分な資金や人材が揃っていたとしても、まず、どこの、何から手を付けたらいいのか分からないのだ。単に家がポツンとあっても仕方ない。店が必要。病院が必要。警察が必要。瓦礫も片付いていない。その処分場も決まっていない。区画整備すら決まっていない。そこに住む人たちの焦りや怒り、要望の数々が上がっても、どのように街づくりをデザインすればいいのかが分からない。これ程までに「何もなくなってしまう」と、そんな状況になっているのではないかと、思わずにはいられない。

そして、2年経った今でも、瓦礫は未だ処分されずに残っている。このBlogの写真も、ほんの一部に過ぎず、実際のところはこれの数十倍もの震災瓦礫が残っている。陸前高田市の仮庁舎で、市民の方の話を聞いたが、受け入れてくれるところが本当に少ない、という嘆きを聞く。それでも、受け入れてくれる自治体の話もいくつか上がっているという。


今回の、未だ震災の爪痕が残る東北の、特に沿岸地域を、ほんの1~2時間程度歩いただけで、自然災害の脅威は勿論のこと、何もかもが無くなってしまったことの絶望感に、痛いほど打ちひしがれた。しかし同時に、そんな数時間程度で絶望に追い込まれる等、とことん甘いことも実感した。だって彼らは、この状況を、2年も目の当たりにしているのだ。そして辛抱強く、今でも、待ち続けている。東北の人たちの辛抱強さ、しなやかさは、そういったところからも生まれているのかもしれない。
その一方で心配なのは、その辛抱強さが強すぎるあまり、これからの生活まで、その強さに埋没されてしまわないか、というところにもある。「これが普通である」「これが日常茶飯事である」ということが根強く残ってしまうと、それもまた、復興の妨げになってしまうのでは、という懸念も、勝手ながら僕の中で生まれている感情である。これだけの広範囲に渡る大規模災害に対し、しかも数十年とかかるであろう原子力発電の事故処理も相成るから、「急いで復興しなければ!」という声は無力に等しい。

僕の中で、今まで『復興』とは、単に『元に戻すこと、元の生活に戻ること』が主眼だと思っていた。でも、事は単純にそうはいかないことを、実際に震災の現場に立って思い知らされた。急いで物事が解決できる、資材や資金が揃っていれば全てが順風満帆である、というわけにはいかない。
『震災復興』とは、一体どうあるべきか、それを今一度しっかり考える、機会となった。

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