2012/07/16

[Travel Writing] 夏の西日本紀行 - 広島編

夏の西日本紀行、最後は広島、尾道・因島へ。

当初、電車とバスを乗り継いで、因島入りし、その後は尾道を散策する、というコースの予定でしたが、昨日広島入りしたGoogle+のフォロワーさんが、車でご一緒していただける、ということに! お言葉に甘えて、車に乗せていただき、一路因島へ。




因島は、現在は尾道市の一つの区域となっているものの、それまでは因島市として独立した市だったそうです。瀬戸内海の豊かで美しい海に囲まれ、青々とした緑が生い茂っている島。自然豊かなこの地は、平安後期から江戸時代に至るまで、様々な側面の歴史が刻まれた地でもあります。
まずは、平安から江戸初期にかけてまで、瀬戸内海、特にこの因島を拠点に活動していた、村上水軍。村上水軍の根城や砦は、城跡としてその名残を瀬戸内海各島の拠点に残すのみであり、因島に設けられた『因島水軍城』は、日本で唯一の水軍の城と銘打っているものの、観光目的で建造された新しい櫓です。櫓の中は、小規模の博物館となっており、瀬戸内海で海賊業を営んだり、要人の警護や資材の運搬を担っていた、当時の様相が展示されています。因島内での彼らの拠点は、『青影城』。但し、ここは現在は道なき道を進むようなところであり、まるで打ち捨てられた遺跡の如く、今も眠った状態となっています…

もう一つは、江戸後期に世に輩出された、碁聖・本因坊秀策。その生地が、因島にあります。
幼少のころから囲碁の才能に秀で、その才能を買われて本因坊丈和に入門。メキメキと力をつけ、やがてお城碁を打つことになります。そこで、伝説の19勝無敗を喫し、以後、日本国内の最強の囲碁棋士として、世に広く知れ渡るものの、コレラにかかり、若くして世を去ります。しかし、本因坊秀策が残した数々の業績は、その後の囲碁界に大きな旋風を引き起こし、日本国内だけでなく、海外からも注目されるようになります。現在、尾道市では、囲碁が『市技』として指定され、老若男女関わらず、多くの人が碁を打つようになっています。
本因坊秀策囲碁記念館の裏手に、最御崎寺があります。そこに、本因坊秀策の墓があり、今も、囲碁棋士や囲碁をたしなむ人の参拝が後を絶たないそうです。


さて。今回の旅で同行していただいている方が、部類(爆)の橋好きで、因島大橋の勇壮な姿も写真に収めておりました。僕も一緒に撮影していたところ、通りかかったおじさんが、

「今日は海の日だから、福山港で海王丸が停泊しているよ」

と教えてくださいまして。


何だとっっ!


帆船なんてめったに見られないのに、しかもそれが、福山港で見られるなんて千載一遇のチャンス! この日の午後は、尾道ブラリ観光を予定していたのですが、海王丸には替えられませんので、一部予定を変更して、尾道経由で福山へ。
あ、勿論尾道でも、海の日イベントは行われており、尾道駅のすぐ目の前には、ラバーダックが鎮座ましましていました。 ^^



その後は、昼食を食べ、福山へ。
朝からだいぶ暑かったですが、昼になると輪にかけて暑くなってきました。それでも、海王丸が見られる! というモチベーションが変わることはなく、福山港国際コンテナターミナルへ。


同行の方が、橋を見て興奮しながら写真に収めるのと同じように、僕も、紺碧の空に浮かぶ白亜の帆船を見ると、やっぱり興奮せずにはいられません。^^;
福山港の寄港イベントの一環として、この日は、海王丸の甲板に一般の人が入ることが出来、外観は勿論、内部(船内の部屋には入れません)も、許す限り堪能してまいりました。^^


この3日間の旅では、初日の石見銀山は天候がやや雨だったものの、そのあとの2日は概ね良好。いや、石見銀山も、雨でしっとりとした森を抜ける、という状況から、むしろ良かったのかもしれません。
そして、この3日間でお付き合頂いた方、また、因島~福山まで車に乗せていただいた Hiroshi SHIOMI さん。本当に有難う御座いました! ^^



因島水軍城 (Innoshima Shuigun Castle) 本因坊秀策囲碁記念館 (Honinbo Shusaku Igo Museum)
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2012/07/15

[Travel Writing] 夏の西日本紀行 - 鳥取編

夏の西日本紀行、旅の二日目は、鳥取・米子です。
当初は、ちょっと北の方へ、境港へ行こうか迷っていましたが、やはり、夏らしい景色を堪能しよう! ということで、予てより計画を立てていた『とっとり花回廊』へ。



聞いた話によりますと、大山は1年のその多くが雲に覆われているため、山の稜線をはっきり見る機会が少ないのだとか。僕も、『とっとり花回廊』に到着した時は、大山は暑い雲に覆われており、その姿を見ることは出来ませんでした(僅かに稜線の一部が見れるだけに留まりました…)。
天気予報では、米子地方は昼くらいから晴れる、ということもあり、まだ時間もあるため、園内の散策や朝鍋ダムの見学を経て、雲が晴れることを待つことに。そうしたら、次第に雲が取れ、大山の全体がはっきり見ることが出来るようになりました。粘り勝ちですね… ^^;

一方、園内は夏の花で真っ盛り。特に、桔梗が園内の至る所に花を開かせ、また、ゆりの館では、大小様々の百合の花が、競うように咲いていました。
欲を言ってしまうとキリが無いのですが、この時期の『とっとり花回廊』は、回廊『内』は、とりわけ目を惹き付ける花といったら、ペチュニア(もしくはそれに類する花)でしょうか… バラやアジサイは、季節としてはもう過ぎており、大部分が枯れています。
その一方で、フラワードームは蘭が真っ盛り。そして、回廊『外』の特に東側、ケヤキの木と遥か遠方に見える大山が、とても美しく、季節によって様々な様相と色が、景色に映えています。

『とっとり花回廊』は、米子駅から直通のバスが出ています。是非、ご覧になってはいかがでしょうか。



『とっとり花回廊』の後は、岡山経由で広島へ。
Google+で、「広島で集まって呑みませんか?」というアナウンスをしたところ、広島にお住いのフォロワーの方が人数を集めてくださいまして。とても面白い夜を過ごすことが出来ました!
皆さん、それぞれの生活、それぞれの仕事をしていらっしゃるのですが、何よりも皆さん一様に、アグレッシブであること! 集まった中では、若造の方に分類されるため、予想以上に濃いエネルギーを貰ったような気がします。 ^^

今回、広島市内は予定としては宿泊のみでしたが、次回以降は、広島城や原爆ドーム、縮景園等、典型的なスポットにとどまらず、広島市内をそぞろに歩きながら、Photowalkに勤しめればなぁ、と思っています。




とっとり花回廊 (Tottori Flower Park)
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2012/07/14

[Travel Writing] 夏の西日本紀行 - 島根編

世界遺産 『石見銀山』     

世界遺産になった今日、山陰の山間にひっそりと眠るように佇む曾ての街並みは、多くの観光客で賑わっています。勿論、京都や日光など、わりとすぐに行けるようなところではありませんので、混雑するような人数の多さではありません。
でも、それくらいの人数が、丁度いいのかもしれません。何せ、そこが世界遺産であろうとなかろうと、文化財である以上、そこは保護し、受け継いでいく必要があるのですから…

勿論、最終的な選択は、人間の手にかかっていますけれどね。守っていくべきか、壊していくべきか。それこそ、人間の、自然や文化に対する姿勢そのものが問われているのだと思います。

大森銀山伝統的重要建造物群保存地区熊谷家住宅

旧河島家渡辺家

石見銀山の派遣は、鎌倉時代の1309年から。しかし、実際に銀山としてその発掘や銀の精製が盛んになったのは、戦国時代になってからと伝えられています。中国地方の大内氏、尼子氏、毛利氏の覇権争いの火種は、やがて日本の天下へと広がり、織田・豊臣・徳川もその勢力争いに参戦することに。最終的に、関ヶ原の戦いにおいて勝利した徳川が、幕領として支配することになります。それも、徳川幕府を開いてすぐ。それほどまでに、この銀山は、国内の流通として、また海外との貿易の材料として、有り余る魅力を放っていたのでしょう。
採掘の手法を改良し、量産していくにつれ、石見も町が形成されていきます。正しく銀が取引されるよう、然るべき奉行や商人が配備され、その賑わいや優雅な暮らしぶりが、町中を歩くと至る所で見受けられます。特に、世界遺産に指定されている熊谷家邸宅では、往年の羽振りの様相が分かる展示品がずらり。酒造の設備は勿論、婦女子の髪飾り(簪や笄等)等の装飾品も展示されており、当時の暮らしぶりが見受けられます。しかし、一部の豪商だけが羽振りを利かせていたわけではなく、通りの家々は、程度の差はあれ、銀山ならではの恩恵を受けていたようですね。
しかも通りは、武家・商家の区域が分かれていたわけではなく、建てられ方の違いはありこそすれ、それぞれが一つの町の中で邸宅を築いていたのだそうです。そういう、町の作り方の不思議さも、石見銀山を歩く上での楽しみかもしれませんね。

龍源寺間歩 - 一龍源寺間歩 - 二

下河原吹屋跡清水谷精錬所跡

そして忘れてはならないのが、銀山から採掘された銀を精製する各遺構です。
石見銀山は、戦国時代から江戸前期にかけてその賑わいの最盛期を迎えますが、次第にその勢いは衰えていきます。その代り、銅の採掘に力を入れ、それは江戸末期にまで至りますが、やはりそれも次第に採掘されなくなり、明治に入り、銀山は次々と閉山されていきます。
往年は500をも超える間歩(坑道)があったものの、今ではそのほとんどが閉鎖されており(水が溜まったり等、危険性があるため)、中に入れるのは片手で数えられる程度。代表的なものは、龍源寺間歩ですね。観光パンフレットなどの写真にも使用されていますが…

しかし、そんな数奇な運命を辿ったとはいえ、当時、世界に流通する銀の3分の1は、日本で採掘されたもの。そのほとんどが石見銀山からの採掘だということですから、極東の島国とはいえ、世界の経済に大きな影響を及ぼしていたことは間違いありません。

ちなみに、間歩の中は結構寒いです。夏場でもそうなのですから、冬はもっと凄いんでしょうね。何せ石見は盆地ですから、夏は暑く冬は寒い。しかも、陽の光が届かない坑道の中なのですから、よほどの寒さなのかもしれません。 ^^;


佐毘売山神社妙正寺

勝源寺羅漢寺

また、同じくこの石見銀山には、遥か昔からこの地を慈しみ、守ってきた神社仏閣が数多くあります。ただ、いずれも規模としては小さく、神主や住職も居たり居なかったり。まるで、歴史に忘れ去られ、打ち捨てられたかのような雰囲気が醸し出されています。
普通なら、取り壊されても誰も気にも留めないような神社・仏閣。しかし、世界遺産に登録されているから、という理由だけで保存されているとは思えないのです。遥か昔から、連綿とこの地を守ってきた存在。神々しさは全くと言っていいほど無いのに、なぜが惹きつけられて止まない魅力、というか、神気のようなものを感じます。派手さ、華美さ、その土地に根付いてきたことによる力を鼓舞する雰囲気は何もない。ただ彼らは、この地を鎮守するという役割を、淡々とこなしているに過ぎない。そしてそれは、これから先も続く。たとえ人が忘れ去っていっても…

その土地を守るということは、単に義務感だけで行えるものではない。時を経て、時を越えて、ただその変化を静かに見続ける。そんな厳かな空気が、石見銀山には満ち溢れています。



石見銀山 (Iwami Ginzan Silver Mine)
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