2013/12/02

[Review] かぐや姫の物語

この作品に最初に衝撃を受けたのは、『風立ちぬ』が上映される前のプロモーションを観た時。まるで水墨画の様な、流線形の描写と滲みの着色。憤怒に満ちた姫が街を駆け抜ける。まるで身にこびり付いた汚らわしい俗物を全て取り払うように。しかしそのシーンに流れるのは、二階堂和美『いのちの記憶』。
ゆったりとした流れの音楽と怒りに満ち満ちたかぐや姫。それは一体何を示すのか。想像力が募る一方だった。

中学・高校の古文を勉強した者なら、誰もが知っている『竹取物語』。さらに言うには及ばず、子供のころから親に読み聞かせ等で、『かぐや姫』を見聞いた人も多いだろう。
作品のキャプションには、『姫が犯した罪と罰』とあり、きっと『竹取物語』から、ジブリアニメならではの大胆なアレンジが施されているのだろう、と思うだろう。が、この作品には全くと言っていいほど奇をてらったところが無い。僅かな解釈はあるが、ほぼ『竹取物語』を忠実に再現している。
しかし、だからと言って「なんだ、別に観るほどのものでもないじゃん」とは思わなかった。それこそ、物語を忠実に淡々と運んでいるのではなく、主人公である『かぐや姫』の性質が盛り込まれ、表現されている。それもこれ見よがしではない。常に『自然体』なのだ。
そこに、『かぐや姫』が犯した『罪』と『罰』が見え隠れしているような気がする。月の住人であるその少女は、人間と同じく『好奇心』という『自我』を持ってしまったこと。これが少女が犯した『罪』。それによって地球に降り、如何に人間が『醜いか』を知ること。自身に『好奇心』という『自我』を持ってしまったことを後悔させること。それが少女に課された『罰』。

地上に生きる中で、少女は幾度となく、人間と交わることによる『辛いこと』を何度も経験した。しかしそれと同じくらい、翁や媼をはじめとする人間から与えられた人間の『情』にも触れてしまった。
その象徴となるのが、自分が手塩をかけて作り上げた庭を、「こんな私なんか『偽物』よ!」と叫びながら壊すシーン。それは、自分にも人間と同じ『醜い』ところがある、ということを自覚してしまった自傷行為。「人間は醜い」と、一方的なまでに自分と切り離して考えることが出来ず、人間の持つ溢れる『情』にも触れてしまったがために、自分の中に芽生えてしまった、『人間と同じ醜い部分』と対面せざるを得なくなった。
少女に罰を与えた月の住人は、その罰として「人間に『好奇心』を抱くな。抱いてしまった罰として、人間の『醜い部分』に触れ、心の底から後悔しろ」というものだったはず。しかしその思惑とは裏腹に、少女の心は『人間』となってしまう。花びらが舞う桜のように、まるで際限ないかのように伸びる竹のように、何ものにも縛られない風のように、自然に溶け込むような生き方を、当初、少女は、そして月の住人は求めていたのに。


いわばこの作品は、『少女』から『女性』に成長する過程を示している、とも思える。単にそれがかぐや姫だけに対するものではなく、この作品を鑑賞する少年・少女全員に対しても当てはまるに違いない。大人になる、というのは、多かれ少なかれ人間の持つ『醜いもの』に触れる、ということだ。人間の社会に生きるには、それは避けては通れないことだ。
だからこそ、しっかりと『自己』を持ち、磨いていってほしい。この作品の、観客に対し求めていることは、そういうところなのかもしれない。



かぐや姫の物語 公式サイト

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