『最後の西部劇』とも言われる、クリント・イーストウッドが監督・主演を務めた『許されざる者 (Unforgiven)』のリメイク版。舞台は明治時代初期の北海道(蝦夷)。土地は荒れ開拓もまだ道半ば、作物も満足に育たず、食うや食わずの、明日をも知れぬ過酷な状況下が物語の舞台です。
物語は、オリジナルであるクリント・イーストウッド版の『許されざる者』をほぼ忠実に踏襲した作りとなっています。そしてそれぞれの登場人物が、自分の生活と誇りの為に死にもの狂いで生きている、それが故に、まさに『明日を生きる』ための渇望が、善と悪の境目に揺らぎを生じさせます。どこまでが許され、どこからが許されないのか。そう言う状況下に陥った人間を、他の人間は許せるのか、許せないのか。
そしてその状況は、時代が変わっても変わらないのではないかな、と思っております。今は科学技術の進歩によって、そうそう食うや食わずの状況ではないですけれど、インターネットの普及による顔の見えないコミュニケーションや、問題を多く孕む情報の受発信が、改めて人間の倫理を問われる時代となっています。便利で平穏、裕福な時代・世相であろうとも、その根幹や本質となる部分は、私たちが『人間』である限りは変わらないのではないか。勿論、それをきちんと理解し、一歩を踏み出すからこそ、人間としての『進化』が可能になるのでしょうけれど。
そして登場する俳優・女優さんたちも、それまでの出演作のイメージといったものもあるのですが、誰一人として『純然たる悪人』を演じる人はいなかったように思います。それぞれが『生きる』為に演じた『悪』。鑑賞した当初は、無垢な白色の中にポタリと一滴垂れた黒い点が徐々に心の中を冒していく、という感じで観ていましたが、振り返ってみると、キャラクターによっては、全編を通じて真っ黒な心中を演じつつも、実際その中には僅かながらも『白』の点が存在するような印象。その最たる例が、大石一蔵を演じる佐藤浩市さん。彼はこれまでの出演作で何度も悪役を演じた時がありましたが、本来の持つ柔和な顔の表情がそうしたのか、完全なまでの悪に徹し切れていない感覚を覚えました。まるで大極図のような人間模様。理性と本能に揺れる現状が、これでもかというくらいの『暴力』で描かれている作品です。
しかしながら、僕が観賞した時期が遅かったからなのかもしれませんが、鑑賞当時、映画館に居たのは僕を含め二人。演技派俳優・女優が豪華な布陣で揃い、話題性も抜群だったにも関わらず。
方々のレビューを見たりすると、やはり『エンターテインメント性』が皆無である、ということや、「何で今更『許されざる者』を…?」という意見がちらほら。確かに、本作は、前述の通りクリント・イーストウッド版の『許されざる者』をほぼ忠実に踏襲しただけに、それを『今』やることの『意味』というのが希薄だったように思います。李相日監督は非常に多大なインスパイアを受けて本作を制作した、というふうに述べているようですが……
そう言う意味で視点を変えてみると、原作の忠実な踏襲の他に、マイノリティへの迫害・白眼視、今作ではとりわけアイヌ・娼婦への迫害に重点を置いているかのように思います。そして、主人公一味を除くそれ以外の登場人物の多くは、長いものに巻かれろ的存在。これも同じく、自分の『平穏な生活』を保証するための一つの行動ではあるかと思います。
ならばこそ、主人公である釜田十兵衛が、決して長いものに巻かれることなく、己の感ずるままにとった暴力・殺戮の果てにある根幹の描写が少なかったなぁ、というのは残念であったように思います。原作のウィリアム・マニーが、最後に、ネッドの遺体の埋葬や娼婦たちを人間らしく扱うように要求するのを、半ば強引に、まるで長じる者に対する恫喝にも思える様な行動が見られなかったのが、残念だったなぁ、と。それがあるからこそ、所謂マイノリティへの念入れが生きてくるのかな、と思いました。
理性と本能の狭間を揺さぶらせながらも、非常に重厚感に溢れる作品です。
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