スーパーマンと言うと、あわや飛行機事故が発生しそうな時に颯爽と現れ、自らの怪力と機転でその危機を救い、「航空機の事故は統計学上少なく、安全な乗り物です」と言って去っていく、というのが印象的ですよね。居合わせたロイス・レインがそこで失神する、というのもお約束な展開ですがw
本作は、そんなコミカルな要素は全くと言っていいほど無く、また『スーパーマン・リターンズ』の続き、というわけでもありません。スーパーマンことカル=エルの出身星であるクリプトンが、まさに崩壊せんとする只中で生を受け、地球に転送されクラーク・ケントとして生きるも、有り余る能力とそれを訝る周囲、出生の秘密、そしてその生と能力をどう使い、どう選ぶか、と言うところに焦点を当てた、謂わばヒーロー誕生の紆余曲折を描いた作品と言えます。
そしてそこが、原案・制作に携わったクリストファー・ノーランの手腕の一つ、とも言えるのでしょうか。『ダークナイト』シリーズと同様に、単にヒーローの能力を余すことなく行使する、謂わば王道のエンターテインメント作品の枠に捉えない、一人の『人間』としての苦悩が端々に窺えます。
ただ、やはりこの物語を人間の心理の奥深くまで巧みに表現しようとなると、ちょっと端折りすぎかなぁ、とも思いました。主人公としてはちょっと潔癖なのかな? という感想を持ちました。
自分の出生、人とは違う能力、歳を経るごとに『地球人ではないのでは』と思えるような行動の数々が、逆に自分自身に疑いをかけてしまう。父親はクラークに対して愛情を注ぐも、(確執とまではいかないが)どこかすれ違いが続いてしまう。有り余る能力を持つ者の悩みは基本的にはその本人にしか理解できるものではなく、多くの場合で利己的にその能力を駆使するも、その歪みが生じる諸問題を目の前にしてやがて自分の能力の使い道を選ぶ… そう言う意味で、シンプルながらも力強いメッセージを与えてくれたのが、トビー・マグワイヤ主演の『スパイダーマン』最初の作品であったように思います。
本来であれば、自分の能力が分かった時点で、同時に自分の使命を知らされていようがいまいが関わりなく、『自分のために』能力を使うというのが『人間らしい』と考えてしまいましたが、今作の場合はあっさりと『能力の使い道』の方向性が定まってしまうあたり、やはりどこか潔癖な感じがしなくもないのです。考えすぎでしょうか… ^^;
いや、そんな風に自分の使い道を初期の時点でしっかり見据えることが出来たのは、自身の中に刻まれたトラウマがあったからこそでしょうね。有り余る能力を如何なく発揮出来たのに、それでも目の前で自分の父親を失くさざるを得ない。これから先、そんな思いは、自分も含め、誰にもさせたくない。この気持ちは、純粋に『人の為』というものではなく、『人の為』をきちんと『自分の為』に置き換えたからこその感情なのでしょう。
あー、書けば書くほど、やっぱり主人公の潔癖さが大きく表現されてしまう様な気がします。もしかしたら、ビギニングたる本作に全てを詰め込むのではなく、『スーパーマン』として覚醒した『後』ならではの葛藤等もあるのでは、と勝手に妄想が膨らみ、そこにより一層人間臭い部分があるのかな、と思ったりします。 ^^;
それとは裏腹に、物語の進行は至ってシンプル。地球を第二のクリプトンにするためにやってきたゾッド一味。そうするための鍵となるコデックスを狙うための攻防。人外としての戦いの一部始終及びその表現も、出来る限りリアルに、実際にその場で起こり得る戦いであるかのように表現されている、と感じました。
予想外の展開や奇をてらった演出などはほぼ皆無に等しく、スーパーマンとしての『王道』たる表現を、しかもキャラクターの内面の葛藤も交えながら表現されている本作。これを起点に、その後どのような展開が待ち受けているのか、より一層、クラークを始めとする様々な人間模様が描かれるのかが楽しみです。
映画『マン・オブ・スティール』公式サイト
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