そんな中、大阪の観光ガイドブックを手にとってパラパラとめくった時、ふと目に飛び込んだ『堺市』という都市。大阪府内で人口・面積ともに第二の都市でもあり、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)から千利休屋敷跡、堺事件や大浜公園の痕跡に至るまでの、古墳~戦国~明治の大きな歴史の河を刻んでいる都市。古来より港町として栄えた街に興味を引かれ、今回の旅の目的地として訪ねました。
御誂えの晴天、というのは、まさにこういう日をいうんでしょうな。
残暑の厳しい暑さがまだ残っているとはいえ、港町ならではの風が町中を潜り抜けている、そんな気持ち良さがあります。
堺では、写真を撮りながら街歩き。コースは、南海鉄道の堺駅~大浜公園~千利休屋敷跡~妙國時などの社寺~戎公園(ザビエル公園)です。こうやって、文字とはいえ、訪れた場所を並べてみると、様々な時代を行ったり来たりしながら歩いているのがよく分かります。 ^^
大浜公園は、明治12年(1879年)開園の、堺市営で最も古い公園。明治36年(1903年)には大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、世界に誇る東洋一の水族館と言われた堺水族館が設置されました。この内国勧業博覧会へのアクセス路線として南海大浜支線が張り巡らされ、当時は賑わいを見せていたものの、第二次世界大戦で壊滅的な被害を受け、1949年に休止、1980年に正式に廃線となりました。今でも、その名残が公園に残っています。
妙國寺は、幕末の堺事件でゆかりのある寺で、宝物館(有料)には、堺事件を引き起こした土佐藩士の切腹場所、そしてその時の遺髪や使われた刀が展示されています。元々の非礼はフランス兵によるもので、警備にあたった土佐藩士が諌めたものの、言葉が通じず死傷事件に発展した事件。当時、どのような紆余曲折があったのかは分かりませんが、その後の不平等条約の片鱗を見たような、そんな気がする事件です。
また妙國寺には、樹齢1100年とも言われる大蘇鉄があります。織田信長は、その権力を以って、天正7年、この蘇鉄を安土城に移植させました。しかし、毎夜「堺妙國寺に帰ろう」と怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄を切りつけたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く、さしもの信長も怖れ即座に妙國寺に返したといういわくつきでもあるのです。 ^^
妙國時の蘇鉄のこともあってか、堺市をてくてくと歩くと、まるで南国に居るかのような、そんな錯覚を覚えます。蘇鉄は、戎公園(ザビエル公園)にも、主体の植物として植えられていますし、堺市の中央を走る中央環状線は、愛称である『フェニックス通り』の名前の通り、フェニックス(カナリーヤシ)が植えられています。蘇鉄は妙國時の縁がありますし、フェニックス通りも、戦後の復興を込めて樹木が植えられていますので、あまり南国と言うイメージとは繋がりがなさそうに見えますが… それでも、海沿いの街、という空気が、まるで南国にいるかのような錯覚を覚えます。 ^^
特にフェニックス通りの界隈は、とても開放的で、残暑でも爽やかな風が吹き、心地よく散策が出来ます。
大浜公園 (Ohama Park) | 戎公園 (Yebisu Park) |
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