2009年1月、ニューヨークからシアトルに向かう予定の航空機が、バードストライクによって両翼のエンジン完全停止、制御不能状態に陥るという事故に見舞われる。しかし、機長・副機長の機転と咄嗟の判断により、凍えるような寒さのハドソン川に不時着水。重大な航空機事故であるにも関わらず、乗員・乗客全員が無事生還した。のちにこの不時着水及び救出活動が、『ハドソン川の軌跡 (Miracle on the Hudson)』と呼ばれ、特に機長のチェズレイ・サレンバーガー氏は、世界中から称賛されることとなった。
この作品の原題『Sully』は、サレンバーガー氏の愛称からとられている。そして、邦題は『ハドソン川の奇跡』とある。しかし、作品そのものは当時の事故は『回想録』とでしか扱われておらず、事故が発生した後の、国家運輸安全委員会 (NTSB / National Transportation Safety Board)による聞き取り調査、事故時の判断や対応の検証、サレンバーガー氏と副操縦士のスカイルズ氏への判断の是非が焦点に充てられている。
何故『事故当時』ではなく『事故後』の物語なのか。監督のクリント・イーストウッド氏も、サレンバーガー機長を演じたトム・ハンクス氏も、事故そのものではなく、『事故に見舞われてもやるべきことをやった男の姿』を見てもらいたい、という。特に、イーストウッド監督の作品は、偉業に基づいた作品を作っても、その偉業を成した『偉人』としての側面は(少なくともその側面だけ、という形では)見せない。あれだけ『英雄』として取り沙汰された機長・副機長も、一人の普通の人間。それは前作の『アメリカン・スナイパー』のクリス・カイルにも共通したところが言える。
一躍時の人になった途端、押し寄せるマスコミやテレビ出演。どこもかしこも『有名人』として彼らを担ぎ上げるが、ヴェールを取れば、有名になったが故に終始監視されているようで、自身も、自身の家族も焦燥し、疲弊しきっている。
一方、NTSBによる事故調査の聞き取りやシミュレーションの過程で、「実は不時着水ではなく近くの空港に着陸させることが出来、より乗客を安全に避難させることが出来た」ことが指摘され、さらにその追及も容赦ない。まるで誘導尋問のようで、「はい、私が間違った判断をしました」といった発言を待っているかのような場面でも、彼等は冷静に当時を回想し、理論的に供述。彼等の判断が間違っていないことが立証された。そう言った、『いつもとは全く違う環境・状況』に置かれたとしても、『自分がなすべきこと』をしっかりと見極め、それに逃げたり目を背けたりすることなく対応している姿は、まさに『プロフェッショナル』に相応しい。そういった、『一人の人間』としての強さ・弱さ、そしてそんな立場に追いやられた時の『成すべきことを見極め、着実に成し遂げる』ことが、この作品の見どころだと思う。
ちなみに本作品では、NTSBがまるで両氏を検察官のように詰問しているように表現している。本作は、英語版のWikipedia等で、「NTSBの調査手法の表現が偏っている」とされ、論争が起こっている。
日本でもそうだが、どのような事故であれ、全ての事故は事故調査を担当する省庁や委員会に送られる。そしてその事故の渦中にあった乗組員が聞き取りの対象になるのは当然のことだ。しかし実際のところは、両氏を陥れるような質問の仕方等は行っていない、という。サレンバーガー氏も、高圧的な印象はなかったらしい。
ということは、このシーンの描写は完全な脚色だろう。勿論、この作品は『事実に基づいた作品』なのだから、『事実そのもの』ではない。脚色なしに淡々とした質疑応答のみではエンターテインメント性に欠ける可能性があるから、このような脚色を施したのかもしれない。
ここも、『アメリカン・スナイパー』と同様のことが言える。一人の『普通の人間』が、極限の状態や日常と全く異なる状況(『アメリカン・スナイパー』では戦場、『ハドソン川の軌跡』では航空機事故と事故調査)に追いやられた時、人は何をどうするか。強くもありまた弱くもある彼等は、そんな時でも、『プロフェッショナル』として振る舞わなければならない。そんな、人間誰しもが持つ苦悩と苦闘を描きたかったのかもしれない。