大分、長崎の旅の最終日の朝は、やや不安定な天気。青空が見える時もあるものの、時折ザッと降る雨。使いたくはなかったのですが、今日は傘が必要そうです。 (´∀`;)
(昨日も必要になるくらいの雨が降った時があったのですが、幸運にも傘を使う時はありませんでした)
とは言え、そんな一時的に雨が降るような天気であるからこそ、予想もしていなかった光景にも出会えたんですけれどね。旅の最後に見ることが出来た光景として、こんなに素敵な贈り物をいただけたのは、ある意味幸運だったのかもしれません。
今日も、午後は友人に案内いただいて、福江島の、特に堂崎教会のある奥浦を回ることにしました。それまでは、五島市街地を、その生活の営みを写真に収めながら歩きました。
五島市の人口は4万人強(2010年国勢調査より)。1970年には7万人近くいたのですが、そこから減少傾向に走っています。街を歩くと、とても発展した街のように思います。特に福江港は漁港として、大小さまざまな施設があり、船も多く停泊。
しかし、街を歩くと、ところどころでシャッター街が。この日の前日は日曜日だから、ということもありシャッターが降りていた店も多くありましたが、週が始まってもちらほら。今はまだ子供や学生も多いし、街を歩けば賑わい、活気を肌で感じることが出来るのですが、もしそういった子供たちも大きくなって、より大きく賑わう街を求めて都市部へ移動すれば、島に残るのは年老いた方々だけに。現在、五島市の人口に対する65歳以上の割合は3割強。それが数十年後には5割。全人口の半分が65歳以上になる、という計算になるそうです。
友人から聞くその話は、別に五島市だけの問題ではなく、他の島、そして街でも聞かれることです。決して他人事ではない。人口に対する高齢者の割合が増えていくのは、発展した国、都市としての宿命とはいえ、これまで培ってきたその街ならではの文化や伝承といったものが薄れ、途切れてしまう可能性というのもあります。そういったこれから起こる事象を踏まえ、これから出来ること、どのような選択を取るかを、考えさせるきっかけにもなります。
福江島と言う、西の端にある島であるという特徴から、この島には宗教に関する様々な伝承が多くあります。その中でも特に、『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』にもある通り、キリスト教に関するものが多く占められているのはご存知の通り。他にも、遣唐使の寄泊と、その過程における仏教の伝来についてもいくつかあります。宗教の伝来、もしくはその中継地点としても、この島は重要な位置を示していたんですね。
とは言え。これらの教会が、実際のところは五島列島の各地にこれほどまでに散りばめられているとは、ちょっと予想外でした。もちょっと市街地に集中しているという手前勝手な目論見が… (´∀`;)
さらに、五島列島の島々も、人が住んでいる住んでいないに関わらず大小さまざまある、というのはご案内した通り。そんなたくさんの表情を魅せる島を、たったの1泊2日で済ませてしまったのは、今回の旅の唯一の後悔したところでもあります。
とは言え、今回の五島市の最大の目的は、友人と昼食を食べること。それが果たせただけでも個人的には大満足。 (´∀`)
この日、最後に訪れたのは堂崎教会。明治6年に建てられたレンガ造りの教会で、現在は教会としての機能はカトリック浦頭教会に移し、堂崎教会は資料館として公開されています。
中には、これまでの豊臣~徳川の政権によって迫害され、苦渋の毎日を過ごしていたことが窺えます。そんな中でも、己の信仰を守るために、あるいは姿を微妙に変え、あるいは巧妙に隠し通すなど、数百年にもわたる頑ななまでの信仰心が感じられます。
しかし因果なことに、世界では、キリスト教は時と共にその姿を変え、頑なに守ってきた姿や方針は、キリスト教が公に認められた時には明治以降、人々を愕然とさせるに至ったわけです。ある人は、その変わった方針に従う人もいるわけですが、それでも、自分たちが守ってきた方針を今でも守っている人もいるわけで、それだけ、自分の心の拠り所である宗教がどれだけ重要な位置を占めているのかが感じられます。
福江から長崎経由で東京へ。帰る際、友人から五島市の名物五島うどんをお土産にいただいました。普通、麺通しがくっつかないようにうどん粉をまぶすわけですが、五島うどんはそれに椿油を使っているとのことで、喉越しもつるつる、食感もモチモチ、本当に美味しいうどんです。
この2日間も含め、改めて御礼申し上げます。
福江島を離れ、長崎空港で東京へ向かう中、既にアンニュイな気持ちが。感動する光景や思わぬところで色々な人と交わり、楽しいひと時を過ごせただけに、離れるのは本当に寂しいなぁ、と。
しかしこういう時は、ちょっと気持ちの切り替えをしています。これは永遠の別れではない。これが出会いの始まりである。生きている限り、また会うことが出来る。それが、次の楽しみにつながる。そう思いながら、長崎を離れたのでありました。
人間らしい生き方を身に着けるため、日々精進努力をしてまいります。 / Daily diligence efforts for better life!
2013/11/18
2013/11/17
[Travel Writing] 深い信仰心が眠る島 - 前編
秋の九州の旅の最終目的地は、長崎から西へ100km、大小合わせて140あまりの島々から構成される五島列島最大の島、福江島へ。長崎から飛行機かフェリー(もしくは高速船)で渡ることが出来ますが、比較的欠航の少ない飛行機で渡ることにしました。
きっかけは、そこに住む友人の、SNS上の投稿から。
しかもその投稿は、単に「昼飯食いに来いよ」的な内容でして、普通なら東京に住む人間が昼飯食うためだけに五島へ行くのはもはや道楽中の道楽。というか、一般サラリーマンの当方としてはまずもってあり得ない行動です。しかし、竹田~軍艦島の旅程を組んでいる中で、たったの1泊2日くらいで、折角の九州の旅をそのまま帰るのは勿体ない、かつて3か月連続で九州を行ったり来たりする(それも仕事ではなく私用の旅で!)という、バカな金の使い方になりかねない。どうしよう… と思案していた時の投稿でしたので、すぐさま食いついたのでゴザイマス。 (´∀`;)
当初は、五島市の市街地を中心に、レンタサイクルで回れるところを回って写真に収めていこうかな、という計画でしたが、まさかその友人が、2日間予定を空けていただいているとは思いもせず。島内巡りをご一緒していただいたのです。おかげさまで、自転車では周遊しきれなかったところまで色々と回ることが出来ました。
ということの見返り、というわけではないのですが、福江空港に到着するや否や、まず最初に訪れたのが、香珠子海水浴場。既に11月の冷たい海水で、当然海水浴をするわけではなく(というより濡れてもいいもの持ってきてない…)、やったのは海岸清掃。
しかし当方、学生時代に海岸清掃のボランティアをやっていたこともあり、何ら抵抗もなくあっさりと受諾。とはいえ、到着した時にはあらかた綺麗になっていましたので、あまりすることなかったのですが… (´∀`;)
まぁそこは、無駄に培った体力を使って、撤収作業に勤しんだわけです。
撤収作業が終了し、作業に携わった人たちを囲って豚汁で打上。打上終了後、友人の車に乗せていただいて、島を周遊して回りました。
ご存知の通り、長崎の五島列島は特に教会の多い場所。九州の、さらに西の地方にあるという土地柄もあってか、隠れキリシタンが迫害から逃れるように住む場所だったため、大小さまざまな教会が建てられています。とは言え、それらの多くは、宗教の自由が保証された明治以降のものばかり。まぁ単純に建物だけを見ればそれまでですが、迫害によって苦しんできた隠れキリシタンの、何十年に渡る隠匿の生活は、想像以上に厳しく、筆舌しがたいものがあります。
それを今も色濃く残している史料が、堂崎教会にあるのですが、それは明日回ることにします。
それと同じく興味深かったのが、福江島が織りなす自然と、政治的・軍事的の背景。特に後者は、単に『興味深い』という言葉では片づけられない、というより、むしろそんな言葉で表す方が失礼な部分も含まれていたりします。
一口に福江島と言っても、その海岸線の成り立ちや気候は様々。堂崎教会のある奥浦や大瀬崎灯台がある玉之浦は、リアス式海岸。入り組んだ海岸と切り立った崖、ごつごつした岩肌。外海の荒波にさらされて出来上がった自然の産物は、その自然の恐ろしさを象徴するに容易いものがあります。かと言って、頓泊海水浴場のように、穏やかでしかも干潮になると沖の方まで歩いていける、つまり満潮になっても、子供でも結構な沖の方まで行くことが出来るところまであったりします。多様な海岸の趣を一度に感じる、稀有な例でもあると言えます。
そんな風土だからか、何と本土では希少で絶滅危惧種にも指定されている生物が、なんとここで豊富に生息している、なんてことも。そんなこと、その友人に案内してもらわなければ、絶対に分からなかったことです。
あ、勿論無断で採取・捕獲は禁止されておりますので悪しからず。
同じく、友人から聞いた話で興味深かったのが、福江島の政治的・軍事的な立ち位置。詳しい話はこのBlogでは避けますが、聞けば聞くほど、そんな話は東京では聞かない、ネット上ですら、注意深く探らない限り、トピックスにすら挙がらないものばかり。興味深かったことと裏腹に、自分の現在の情勢の無知っぷりに愕然としたものです。
でも、それらの情報がたとえ目にし耳にしていたとしても、きっと「ああ、そうなんだ」と単なる情報取得だけに終わっていたような気がします。これは、現地に行かなければ実感出来なかったこと。何て言っても、福江島のすぐそこは東シナ海。外国からの様々な影響を一番に受けるところなのです。東京でのうのうと生きているだけでは、分からないものがあります。
とは言え、毎日が緊張の連続ではそれこそ精神上よろしくありませんので、福江に住まう皆さんは本当に大らか。そして、その島に住む人たちならばこその、芯の強さがあるように垣間見えました。
夜は、一度ホテルにチェックインした後、友人のお勧めのお店で夕食。福江島で獲れた魚に舌鼓を打ちながら、秋の夜長を楽しみました。
2013/11/16
[Travel Writing] 近代産業が遺したモノ - 軍艦島
『竹楽』の余韻も冷め止まぬ早朝。いよいよ肌を突き刺すような寒さの季節の到来を予感させる空気の冷たさを感じてきました。何故こんな朝早くに豊後竹田駅から移動しなければならかいか、というと、昼には長崎に到着したかったから。外はこんな寒さでも、電車の中に入れば、まだ暖房が入っていなくてもちょっとはマシになります。
阿蘇山を突き抜け、熊本~鳥栖を経由して長崎へ。その道中、鳥栖駅で『ななつ星in九州』に遭遇! まだ新しい車両名だけに、放たれる輝くばかりの車体に、しばし凝視しておりました。一泊二日、もしくは三泊四日で九州を周遊できる列車。そのお値段はこのブログに書くまでもない、まさにセレブ御用達。下々の者共が容易に手の届くものではないのです。 (´∀`;)
指をくわえながら、一路長崎へ。
しかし今回の長崎への旅は、いつも以上に天候の動向にはらはらしながらの移動でした。何せ今回の長崎の旅は、軍艦島へ渡ること。しかし聞いた話によると、1m程度の波で上陸を諦め、引き返すことがあるとか。その話を聞いた時は、半ば冗談と受け取っていましたが、実際のところそれは恐らく本当の事だというのを身に染みて理解した次第です。
この日は、まだ波も高くなく風もそんなに強くなく、比較的穏やかな環境なんだそうです。『まだ』。それでも、クルーズ船が長崎港から出てしばらくしないうちに、船が大きく上下に揺れるように。長崎港の内海ですらこんな状況ですから、女神大橋を抜けて外海に出た時の風・波の大きさは推して知るべし、といったところでしょう。
ちなみに、長崎近海の海が比較的穏やかなのは、まだ梅雨が来る前の5月下旬~6月中旬くらい。梅雨時や台風シーズンは言わずもがなですが、その台風が過ぎて穏やかな日々が続きそうな10月~11月ですらも、渡航できないほどの波が高い日が多いそうです。実際、僕が行った日の丁度一週間前は、天候こそ良かったのに、波が高くて途中で引き返したとか。
とにもかくにも、無事、軍艦島にたどり着くことが出来ました。
軍艦島の正式名称は『端島』。かつて、歩けば20分くらいで一周出来てしまう小さな島に、最大で5000人もの人が暮らしていました。この近海から採れる石炭が、日本のエネルギーを支える資源として大いに持て囃され、まるでゴールドラッシュを夢見るかの如く、多くの人がこの島に住んだんだそうです。
当然、これだけの人間が住めば済む場所など一瞬で枯渇しますから、高層マンションが建つのは当たり前。子供たちの遊び場としての広場が確保できるわけもなく、もっぱらマンションの屋上で遊んでいたそうです。
しかし、石炭から石油へのエネルギー政策の転換により、石炭採掘の持続が可能なのに、敢え無く閉山。島民は全て本土へ引き上げ、端島は無人島となります。二度と戻らない島の建物は、一部は取り壊されたものの、全てが取り壊されたわけではなく、今でもこうして、かつての生活の面影を僅かに残しながら、残骸として横たわっているのです。強い風による風化、台風による建物や斜面の崩れを受け、徐々に蝕まれていくのを横目で見ながら 。
なんて、まるで感傷に浸ったかのような語り口調で書いてみたものの、廃墟大好き人間の当方としては、この威容を目の当たりにして、興奮せずにはいられないのです! ( ゜∀゜) ウッヒョー!
しかし、そんな興奮も、今回のナビゲーターである『軍艦島を世界遺産にする会』理事長の坂本さんの話を聞いて、下火になっていきます。というのも、坂本さんはこの軍艦島出身。政府のエネルギー政策の転換によって翻弄され、これまでの生活を捨てることを余儀なくされた、ということを切々と語ります。坂本さんはその時高校生。慣れ親しんだ故郷を捨てなければならない、廃墟となった故郷を見るのは忍びない。しかしその廃墟を、捨てよと命じた政府が遺産に登録する、という動きの矛盾に対する憤り。その心情はいかばかりか。
と思ったものの。ん? ちょっと待って?
石炭の採掘を、戦時中の軍国主義的な背景柄、まるで奴隷として働かされた、というのならともかく、高層マンションも建ち、どこよりも家電の普及率が高く、島内ヒエラルキーがあるとはいえむしろ当時の一般家庭から見れば裕福な方であった端島の生活。ということは、ここに石炭採掘に渡航した人たちは、どちらかと言えば豊かな暮らしを求めてやってきたわけだ(中には命令で来た、と言う人もいるかもしれないけれど)。つまり、自分たちでこの島に『選んで』来た、ということ。それは、この島と近海の石炭がたとえ枯渇して引き上げなければならない状況下にあっても、全て『選んだ』ことによる『責任』も全て含まれている、ということになる。
政府がエネルギー政策の転換を図ったのは、石油の方が効率性や価格面などで、石炭よりもメリットがあるから。より安く、より効率的な方策を選ぶのは、別に政府でなくたって、人間誰しもが望むことじゃない? それを、「政府のエネルギー政策の転換が~」と叫んでしまうのは、それこそ責任転嫁になるんじゃないのか?
そう思った次第なのです。
もし、坂本さんが、当時高校生ではなく石炭発掘の業務に携わっていた人であれば、これほど説得力の無い話はないと思いました。まだ、自身の進路もままならない高校生の時に、島を離れざるを得なかったからこそ、その悲痛の叫びに転じたのかもしれません。
しかし僕としては、それ以上に憤慨する出来事が、廃墟への落書き。
長崎市の許可を得ての特別なツアーでもない限り、指定された場所以外への立ち入りは原則出来ません。観光で軍艦島に入ることが出来るのは、ほんの僅かな領域だけなのです。にも関わらず、立ち入り禁止の区域に書かれる、『○○大学●●サークル 参上!』等の落書きの数々。もしこのブログを見たそこのお前、歯を食いしばって前に出てこい、と言いたいくらいです。
落書きを消すことは出来ても、その作業によって廃墟として残すべき個所が崩れるかもしれない。そうなると、その落書きを含め、それを遺構として遺さなければならない。『軍艦島を世界遺産にする会』のジレンマは、こんなところにも出てしまっているのです。
今回の軍艦島ツアーは、喜び勇んで行く予定だったものが、色々な意味で考えさせられるツアーとなりました。しかし、上陸時間がほんの1時間足らず、というのがやはり物足りないところ。でも、これからも観光客が増えるとなると、そういうわけにもいきませんものね。
阿蘇山を突き抜け、熊本~鳥栖を経由して長崎へ。その道中、鳥栖駅で『ななつ星in九州』に遭遇! まだ新しい車両名だけに、放たれる輝くばかりの車体に、しばし凝視しておりました。一泊二日、もしくは三泊四日で九州を周遊できる列車。そのお値段はこのブログに書くまでもない、まさにセレブ御用達。下々の者共が容易に手の届くものではないのです。 (´∀`;)
指をくわえながら、一路長崎へ。
しかし今回の長崎への旅は、いつも以上に天候の動向にはらはらしながらの移動でした。何せ今回の長崎の旅は、軍艦島へ渡ること。しかし聞いた話によると、1m程度の波で上陸を諦め、引き返すことがあるとか。その話を聞いた時は、半ば冗談と受け取っていましたが、実際のところそれは恐らく本当の事だというのを身に染みて理解した次第です。
この日は、まだ波も高くなく風もそんなに強くなく、比較的穏やかな環境なんだそうです。『まだ』。それでも、クルーズ船が長崎港から出てしばらくしないうちに、船が大きく上下に揺れるように。長崎港の内海ですらこんな状況ですから、女神大橋を抜けて外海に出た時の風・波の大きさは推して知るべし、といったところでしょう。
ちなみに、長崎近海の海が比較的穏やかなのは、まだ梅雨が来る前の5月下旬~6月中旬くらい。梅雨時や台風シーズンは言わずもがなですが、その台風が過ぎて穏やかな日々が続きそうな10月~11月ですらも、渡航できないほどの波が高い日が多いそうです。実際、僕が行った日の丁度一週間前は、天候こそ良かったのに、波が高くて途中で引き返したとか。
とにもかくにも、無事、軍艦島にたどり着くことが出来ました。
軍艦島の正式名称は『端島』。かつて、歩けば20分くらいで一周出来てしまう小さな島に、最大で5000人もの人が暮らしていました。この近海から採れる石炭が、日本のエネルギーを支える資源として大いに持て囃され、まるでゴールドラッシュを夢見るかの如く、多くの人がこの島に住んだんだそうです。
当然、これだけの人間が住めば済む場所など一瞬で枯渇しますから、高層マンションが建つのは当たり前。子供たちの遊び場としての広場が確保できるわけもなく、もっぱらマンションの屋上で遊んでいたそうです。
しかし、石炭から石油へのエネルギー政策の転換により、石炭採掘の持続が可能なのに、敢え無く閉山。島民は全て本土へ引き上げ、端島は無人島となります。二度と戻らない島の建物は、一部は取り壊されたものの、全てが取り壊されたわけではなく、今でもこうして、かつての生活の面影を僅かに残しながら、残骸として横たわっているのです。強い風による風化、台風による建物や斜面の崩れを受け、徐々に蝕まれていくのを横目で見ながら
なんて、まるで感傷に浸ったかのような語り口調で書いてみたものの、廃墟大好き人間の当方としては、この威容を目の当たりにして、興奮せずにはいられないのです! ( ゜∀゜) ウッヒョー!
しかし、そんな興奮も、今回のナビゲーターである『軍艦島を世界遺産にする会』理事長の坂本さんの話を聞いて、下火になっていきます。というのも、坂本さんはこの軍艦島出身。政府のエネルギー政策の転換によって翻弄され、これまでの生活を捨てることを余儀なくされた、ということを切々と語ります。坂本さんはその時高校生。慣れ親しんだ故郷を捨てなければならない、廃墟となった故郷を見るのは忍びない。しかしその廃墟を、捨てよと命じた政府が遺産に登録する、という動きの矛盾に対する憤り。その心情はいかばかりか。
と思ったものの。ん? ちょっと待って?
石炭の採掘を、戦時中の軍国主義的な背景柄、まるで奴隷として働かされた、というのならともかく、高層マンションも建ち、どこよりも家電の普及率が高く、島内ヒエラルキーがあるとはいえむしろ当時の一般家庭から見れば裕福な方であった端島の生活。ということは、ここに石炭採掘に渡航した人たちは、どちらかと言えば豊かな暮らしを求めてやってきたわけだ(中には命令で来た、と言う人もいるかもしれないけれど)。つまり、自分たちでこの島に『選んで』来た、ということ。それは、この島と近海の石炭がたとえ枯渇して引き上げなければならない状況下にあっても、全て『選んだ』ことによる『責任』も全て含まれている、ということになる。
政府がエネルギー政策の転換を図ったのは、石油の方が効率性や価格面などで、石炭よりもメリットがあるから。より安く、より効率的な方策を選ぶのは、別に政府でなくたって、人間誰しもが望むことじゃない? それを、「政府のエネルギー政策の転換が~」と叫んでしまうのは、それこそ責任転嫁になるんじゃないのか?
そう思った次第なのです。
もし、坂本さんが、当時高校生ではなく石炭発掘の業務に携わっていた人であれば、これほど説得力の無い話はないと思いました。まだ、自身の進路もままならない高校生の時に、島を離れざるを得なかったからこそ、その悲痛の叫びに転じたのかもしれません。
しかし僕としては、それ以上に憤慨する出来事が、廃墟への落書き。
長崎市の許可を得ての特別なツアーでもない限り、指定された場所以外への立ち入りは原則出来ません。観光で軍艦島に入ることが出来るのは、ほんの僅かな領域だけなのです。にも関わらず、立ち入り禁止の区域に書かれる、『○○大学●●サークル 参上!』等の落書きの数々。もしこのブログを見たそこのお前、歯を食いしばって前に出てこい、と言いたいくらいです。
落書きを消すことは出来ても、その作業によって廃墟として残すべき個所が崩れるかもしれない。そうなると、その落書きを含め、それを遺構として遺さなければならない。『軍艦島を世界遺産にする会』のジレンマは、こんなところにも出てしまっているのです。
今回の軍艦島ツアーは、喜び勇んで行く予定だったものが、色々な意味で考えさせられるツアーとなりました。しかし、上陸時間がほんの1時間足らず、というのがやはり物足りないところ。でも、これからも観光客が増えるとなると、そういうわけにもいきませんものね。
2013/11/15
[Travel Writing] 竹の灯りが織りなす幻想 - 竹楽
「日本史の中で一番好きな時代は?」
と問われたら、真っ先に挙げるのが明治時代。それも、『坂の上の雲』の影響が非常に大きい。様々な紆余曲折があるとはいえ、始めて身分の高低なく『国家』というものを意識始め、これまでも国と国との交渉ごとはあろうとも、それでも一部の国との間だけにすぎず、広く遍く『国際』というものを意識し始めた時代は無かったと思う。
明治維新を遂げ、僅か数十年で近代国家の仲間入りを果たした日本。その急激な成長劇の中を、日清戦争~日露戦争を主軸とした舞台で生きた人物を描いているのが、『坂の上の雲』である。彼らの、日本が世界に肩を並べるために費やした努力の数々が主に描かれているところであるが、そんな彼らを支える、『明治時代』という気質が好きになった。完全とはいかないまでも、それまでの抑圧から解放され、自由を謳歌する一方で、不慣れなよちよち歩きの赤ん坊が、大海原に向かって泳ぎだす。大きな危険を冒す可能性がありながらも、どこかワクワクさせる高揚感がある時代と感じた。
そんな『坂の上の雲』の中で、最も興味を引いた人物が、竹田市出身の軍神、『広瀬武夫』だ。ドラマで藤本隆宏さんが演じたから、というのもあるけれど、大きさと真っ直ぐさを兼ね備えた男の生涯に惹かれたところが大きい。『坂の上の雲』を読破後、独自に彼の本を読み始めたくらいだ。
そんな、彼が生まれ育ったところはどんなところだろう、と思いを馳せながら、大分空港に到着。大分駅を経て、竹田市に向かった。
実は、今回の竹田市は、市街地を写真に収めながら歩くというのと他に、絶対に見たいと焦がれていたイベント『竹楽』がある。それは、日も暮れた夜にならないと始まらない。
史跡好きとしては、竹田に到着したらやはり訪れずにはいられないのが、岡城址。標高325mの天神山の山頂に築かれた山城でありながら、その規模は大きく、特に崖のように急峻で且つ規模の大きな石垣は、その威容だけでも息を呑むのに、当時の、こんな場所にこれだけの石垣が作れる、という技術力の高さに感嘆せずにはいられない。
岡城は桜の名所として知られているが、紅葉も実に見事である。若干時期が早かったようであるが、特に西中仕切跡が素晴らしかった。ここは、外部へ迫立つ石垣の特に美しいところでもあり、紅葉の美しさも相成って一層美しさが際立っていたように思える。
そして、本丸跡には、幼年時代をここで過ごした滝廉太郎の像がある。23歳と言うあまりにも若くして亡くなった廉太郎。100年近く経過した今でも歌い続けられている曲を世に出すほど、己の生命を燃焼し尽したのだろうか。彼の代表作である『荒城の月』のモチーフは諸説あるが、この岡城が有力な候補として挙げられている。
史跡そのものの広さもあるが、史跡やそれを取り囲む自然の、季節の美しさもあり、2時間近くもここに滞在してしまった。本来であれば後悔するところだ、これだけの美しさを誇る城跡だ。これだけ時間を掛けてしまう魅力に溢れている。ただ、岡城を下りた時、まだ午後も少し時間が経過したばかりなのに、陽に傾きが出てきているところが、晩秋の訪れを感じさせるとともに、少々急ぎ足で街中を歩きたい、という気持ちを駆り立てられてしまう。
竹田市は、京都や札幌に比べればだいぶ小規模ではあるものの、それでも格子状に入り組んでいる道は、しばしば訪れる人を迷わせる。だが、折角来たのだから、そういった『迷う』というのも旅のだいご味。色々な場所を行ったり来たりして、その街の雰囲気を味わってみる。
竹田市は、その市の名前に冠するように、竹の産地として有名で、竹細工を売っている土産物店が多い。さらに、『竹楽』に使う灯籠用の竹が、街中に並ぶ。もっとも、『竹楽』は一部の社寺や特定の会場等で実施されるものと思っていたが、おびただしい数の灯籠用の竹が街中に立っているあたり、特定の施設の祭りではなく、町全体を挙げての祭りだということを、ここに来て初めて知る。しかし、そのせいもあってか、一部の施設は早々に開業時間を切り上げ、中には立ち入ることも制限されてしまう場所もあるため、注意が必要だ。
そして、この旅の目的の一つである広瀬神社にも立ち寄った。竹田市の戦没者を合祀する神社であり、軍神・広瀬武夫を主祭神としている、比較的新しい神社だ。広瀬武夫の無骨なまでの人生とは別に、神社境内には、穏やかな空気に包まれていた。
日も暮れ、徐々に街から明るさが遠のいた時、『竹楽』のイベントが始まる、住人の手によって竹の灯籠の中のロウソクに火がともされる。勿論、まだ明るさを残す自分であれば、それはただの小さな光に過ぎない。やがて陽の光がなくなった時、文字通りこの世のものかと思えるほどの幻想的な空間が現れる。
東京に住む人間にとって、大分なんて、それも竹田市なんて、仕事でもない限りそうやすやすと来れるところじゃない。ましてや、このイベントのために毎年のように日程を調整するとなると、至難の業である。たとえ来ることが出来たところで、雨が降って中止になるかもしれない。
僕が何かに憑りつかれるように撮影する時、それは、もうこの光景には二度と会えないかもしれないことの覚悟と恐怖を込めてでもある。これだけの、息を呑むような光景は、一生に一度出会えるかどうかにもかかっているかもしれない。目で見たものを頭の記憶に、感じたものを心の奥底にしまっておくだけでも物足りない。全てを切り取りたいと思わんばかりに、撮影の限りを尽くした。
特に、広瀬神社の境内へ登る階段、上を見上げると、丁度階段の真上に、月が煌々と照らされていた。この日が平日だということをこれ程感謝したことはない。もし土日祝日だったら、撮影スポットに近づくことすら出来なかっただろうから。
そんな竹楽のイベントの中で、観音寺は正に見せ場と言う意味では美しかったが、『場の美しさ』を表現していたのは、まぎれもなく『キリシタン洞窟礼拝堂』だったと思う。
ここ竹田でも、豊臣秀吉によるキリスト教の弾圧によって大勢のキリスト教信者が隠れるように住んでいた。その傍らで、自分たちの信じる信仰を頑なに守り続けていた。その面影を残すのが、洞窟礼拝堂。町のはずれに、まるで俗世から隠れるように、ひっそりと今でもそこにある。神を湛える重厚感のある音楽が、ささやくように流れる中で、闇の中を揺らめくロウソクの灯りを見ながら、当時の苦しい世の中を懸命に生き抜いてきた人を思いはせずにはいられなかった。
一通り撮影も終り、冷たい風に冷え切った身体を温めるため、出店で温かい食べ物を頬張り、どこからか流れる音楽に耳を傾けながら、深まる秋の夜長を楽しむ。最高とも言える贅沢な夜の過ごし方が、ここにあった。
と問われたら、真っ先に挙げるのが明治時代。それも、『坂の上の雲』の影響が非常に大きい。様々な紆余曲折があるとはいえ、始めて身分の高低なく『国家』というものを意識始め、これまでも国と国との交渉ごとはあろうとも、それでも一部の国との間だけにすぎず、広く遍く『国際』というものを意識し始めた時代は無かったと思う。
明治維新を遂げ、僅か数十年で近代国家の仲間入りを果たした日本。その急激な成長劇の中を、日清戦争~日露戦争を主軸とした舞台で生きた人物を描いているのが、『坂の上の雲』である。彼らの、日本が世界に肩を並べるために費やした努力の数々が主に描かれているところであるが、そんな彼らを支える、『明治時代』という気質が好きになった。完全とはいかないまでも、それまでの抑圧から解放され、自由を謳歌する一方で、不慣れなよちよち歩きの赤ん坊が、大海原に向かって泳ぎだす。大きな危険を冒す可能性がありながらも、どこかワクワクさせる高揚感がある時代と感じた。
そんな『坂の上の雲』の中で、最も興味を引いた人物が、竹田市出身の軍神、『広瀬武夫』だ。ドラマで藤本隆宏さんが演じたから、というのもあるけれど、大きさと真っ直ぐさを兼ね備えた男の生涯に惹かれたところが大きい。『坂の上の雲』を読破後、独自に彼の本を読み始めたくらいだ。
そんな、彼が生まれ育ったところはどんなところだろう、と思いを馳せながら、大分空港に到着。大分駅を経て、竹田市に向かった。
実は、今回の竹田市は、市街地を写真に収めながら歩くというのと他に、絶対に見たいと焦がれていたイベント『竹楽』がある。それは、日も暮れた夜にならないと始まらない。
史跡好きとしては、竹田に到着したらやはり訪れずにはいられないのが、岡城址。標高325mの天神山の山頂に築かれた山城でありながら、その規模は大きく、特に崖のように急峻で且つ規模の大きな石垣は、その威容だけでも息を呑むのに、当時の、こんな場所にこれだけの石垣が作れる、という技術力の高さに感嘆せずにはいられない。
岡城は桜の名所として知られているが、紅葉も実に見事である。若干時期が早かったようであるが、特に西中仕切跡が素晴らしかった。ここは、外部へ迫立つ石垣の特に美しいところでもあり、紅葉の美しさも相成って一層美しさが際立っていたように思える。
そして、本丸跡には、幼年時代をここで過ごした滝廉太郎の像がある。23歳と言うあまりにも若くして亡くなった廉太郎。100年近く経過した今でも歌い続けられている曲を世に出すほど、己の生命を燃焼し尽したのだろうか。彼の代表作である『荒城の月』のモチーフは諸説あるが、この岡城が有力な候補として挙げられている。
史跡そのものの広さもあるが、史跡やそれを取り囲む自然の、季節の美しさもあり、2時間近くもここに滞在してしまった。本来であれば後悔するところだ、これだけの美しさを誇る城跡だ。これだけ時間を掛けてしまう魅力に溢れている。ただ、岡城を下りた時、まだ午後も少し時間が経過したばかりなのに、陽に傾きが出てきているところが、晩秋の訪れを感じさせるとともに、少々急ぎ足で街中を歩きたい、という気持ちを駆り立てられてしまう。
竹田市は、京都や札幌に比べればだいぶ小規模ではあるものの、それでも格子状に入り組んでいる道は、しばしば訪れる人を迷わせる。だが、折角来たのだから、そういった『迷う』というのも旅のだいご味。色々な場所を行ったり来たりして、その街の雰囲気を味わってみる。
竹田市は、その市の名前に冠するように、竹の産地として有名で、竹細工を売っている土産物店が多い。さらに、『竹楽』に使う灯籠用の竹が、街中に並ぶ。もっとも、『竹楽』は一部の社寺や特定の会場等で実施されるものと思っていたが、おびただしい数の灯籠用の竹が街中に立っているあたり、特定の施設の祭りではなく、町全体を挙げての祭りだということを、ここに来て初めて知る。しかし、そのせいもあってか、一部の施設は早々に開業時間を切り上げ、中には立ち入ることも制限されてしまう場所もあるため、注意が必要だ。
そして、この旅の目的の一つである広瀬神社にも立ち寄った。竹田市の戦没者を合祀する神社であり、軍神・広瀬武夫を主祭神としている、比較的新しい神社だ。広瀬武夫の無骨なまでの人生とは別に、神社境内には、穏やかな空気に包まれていた。
日も暮れ、徐々に街から明るさが遠のいた時、『竹楽』のイベントが始まる、住人の手によって竹の灯籠の中のロウソクに火がともされる。勿論、まだ明るさを残す自分であれば、それはただの小さな光に過ぎない。やがて陽の光がなくなった時、文字通りこの世のものかと思えるほどの幻想的な空間が現れる。
東京に住む人間にとって、大分なんて、それも竹田市なんて、仕事でもない限りそうやすやすと来れるところじゃない。ましてや、このイベントのために毎年のように日程を調整するとなると、至難の業である。たとえ来ることが出来たところで、雨が降って中止になるかもしれない。
僕が何かに憑りつかれるように撮影する時、それは、もうこの光景には二度と会えないかもしれないことの覚悟と恐怖を込めてでもある。これだけの、息を呑むような光景は、一生に一度出会えるかどうかにもかかっているかもしれない。目で見たものを頭の記憶に、感じたものを心の奥底にしまっておくだけでも物足りない。全てを切り取りたいと思わんばかりに、撮影の限りを尽くした。
特に、広瀬神社の境内へ登る階段、上を見上げると、丁度階段の真上に、月が煌々と照らされていた。この日が平日だということをこれ程感謝したことはない。もし土日祝日だったら、撮影スポットに近づくことすら出来なかっただろうから。
そんな竹楽のイベントの中で、観音寺は正に見せ場と言う意味では美しかったが、『場の美しさ』を表現していたのは、まぎれもなく『キリシタン洞窟礼拝堂』だったと思う。
ここ竹田でも、豊臣秀吉によるキリスト教の弾圧によって大勢のキリスト教信者が隠れるように住んでいた。その傍らで、自分たちの信じる信仰を頑なに守り続けていた。その面影を残すのが、洞窟礼拝堂。町のはずれに、まるで俗世から隠れるように、ひっそりと今でもそこにある。神を湛える重厚感のある音楽が、ささやくように流れる中で、闇の中を揺らめくロウソクの灯りを見ながら、当時の苦しい世の中を懸命に生き抜いてきた人を思いはせずにはいられなかった。
一通り撮影も終り、冷たい風に冷え切った身体を温めるため、出店で温かい食べ物を頬張り、どこからか流れる音楽に耳を傾けながら、深まる秋の夜長を楽しむ。最高とも言える贅沢な夜の過ごし方が、ここにあった。
2013/11/04
[Travel Writing] Autumn has come in TOHOKU! - Yamagata
東北の秋を巡る旅。最終日は山形県です。山形県は、角館や盛岡と異なり、一つの街をじっくり歩くのではなく、見たいところを方々と歩く、というスタイルを取りました。しかし迂闊にも、意外にも山形市内は、僕好みの明治~大正時代のレトロ建築の宝庫だということを知り。また、上山市も武家屋敷や工芸品を用いた、素朴なショップが立ち並ぶということを知り。今回の目的とは異なるとはいえ、今度歩く時はしっかりとリサーチすべきだなぁ、と思った次第です。 ^^;
とは言え、新たな発見があるのは個人的には嬉しいことですが。特に上山市は、それまで単に温泉街というイメージしか知らなかっただけに、インスピレーションが膨らみました。
この日は朝からしとしと雨。せっかく晴天祈願していたのに… (´・_・`)
折角の紅葉の、何だか残念な感じに… と嘆いても仕方ないので、しっとりした紅葉散策もこれはこれで楽しもうと思い、まずは霞城公園へ。
訪れた時は、菊祭りの真っ最中。工事中の一文字門を通り過ぎると、二の丸東大手門では、山形城復原のための発掘調査や過去の史料などの展示が行われていました日本100名城の1つにも指定されている山形城。明治初期にもその姿を留めていたものの、日露戦争に向け、物資の調達や貯蔵、作物の植え付け等の理由によりほとんどの建物が取り壊されてしまったそうです。僅かに残った遺構と、数少ない写真等の史料を元に、発掘調査や復元工事を進めているところですが、それでも30年近くはかかる、とのこと。何せ当時の写真もごくわずかで、情報提供を広く呼び掛けているのだそうです。
かつての山形城の偉大なる姿を見るのは、まだまだ当分先の話。気長に待つしかなさそうです。 ^^;
しかし、それ以上に山形市内で興味を引いたのが、明治~大正時代に建造された、歴史的建築物の数々。山形に関しては、主に城郭や社寺を廻ることを念頭に置いていただけに、この発見はレトロ建築物大好きな当方として、本当に垂涎の的でした。時間の都合上、様々なところに移動しなければならないことを悔いた程です。
ただ、前述にもある通り、新たな山形市の発見にもつながったことでもあります。この次に来る機会があれば、レトロな街並みや建物を探しに旅してみようと思いました。そして、実際にいくつかの建物の写真を見てみると、それらは山形市内だけに留まらないようです。時間の許す限り、探検してみたいですね。
今回訪れた建築物は、現在は山形市郷土館として利用されている『旧済生館本館』。オーストリア人医師ローレツ氏を招聘し、東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ、医療の発展、そして医学校の設立等に大きな貢献をしたそうです。
展示物は、ローレツ氏の功績、医療器具等を始め、当時の山形市内の、建築を始めとする多くの様子が写真に収められ、展示されていました。
同様に、上山市も上山城だけが目的だったのが、駅を降りた時に見た地図に、武家屋敷を始めとする史跡の数々が。さらに、上山城に向かう道なりの店には、これまた興味をそそる、木工を中心とした工芸の数々。特に上山市を発祥とする伝統工芸ではないものの、山の多い山形ならではの、森林の木々を用いた工芸品が多いのかもしれません。
上山市から北へ向かい、最後の目的地・新庄市へ。新庄城を見てから、新幹線で東京へ帰ろうと思ったのは、一番の理由は新庄から新幹線で帰ろう、と思った次第です。それによる理由は2つ。東北の紅葉が見ごろの三連休ということもあり、その最終日とあっては新幹線が混雑するのも必至。終点である新庄から乗車すれば、ほぼ確実に自由席に座れるから、ということ。もう一つは、新庄~山形間の新幹線を利用することで、これで晴れて新幹線全区間制覇(2013年時点での営業区間)出来るから、ということですw
山形を経由したところから、天候も徐々に回復し、新庄市へ到着した頃には日差しも出てきました。終日雨の予報が、最後の方でようやく晴れ。もちょっと早く晴れてほしかったなぁ、と思ったところですが… (・ω・)
新庄城は、新庄藩の藩主である戸澤氏の居城。現在、敷地内は最上公園として整備され、戸澤神社を始めとする神社がいくつか建立されていますが、かつての威容を遺す土塁と堀が、見事なまでに形を残していて素晴らしい。地図上から見てもそれほど大きい敷地ではないだけに、実際に目の当たりにした時は、結構興奮冷め止まぬ、という状態でした。 ^^
東日本大震災から2年半以上が過ぎ、復興が進みつつも一部はまだまだの状態もあったりと、やきもきが続く毎日。それでも、季節は着実に進み、景色を彩らせます。殺伐とさせるニュースが続く中、1年に1度訪れる身近な自然の恵みであっても、それを変わらず楽しめる、というのは、本当に幸せなことなんだな、と実感した瞬間でもあります。
今回の旅は、秋田→岩手→山形ですが、他3県(青森・宮城・福島)も、同様に美しい紅葉に彩られたと思います。東北の季節を追う旅。これからも続けていきたいなぁ、と思いました。
とは言え、新たな発見があるのは個人的には嬉しいことですが。特に上山市は、それまで単に温泉街というイメージしか知らなかっただけに、インスピレーションが膨らみました。
この日は朝からしとしと雨。せっかく晴天祈願していたのに… (´・_・`)
折角の紅葉の、何だか残念な感じに… と嘆いても仕方ないので、しっとりした紅葉散策もこれはこれで楽しもうと思い、まずは霞城公園へ。
訪れた時は、菊祭りの真っ最中。工事中の一文字門を通り過ぎると、二の丸東大手門では、山形城復原のための発掘調査や過去の史料などの展示が行われていました日本100名城の1つにも指定されている山形城。明治初期にもその姿を留めていたものの、日露戦争に向け、物資の調達や貯蔵、作物の植え付け等の理由によりほとんどの建物が取り壊されてしまったそうです。僅かに残った遺構と、数少ない写真等の史料を元に、発掘調査や復元工事を進めているところですが、それでも30年近くはかかる、とのこと。何せ当時の写真もごくわずかで、情報提供を広く呼び掛けているのだそうです。
かつての山形城の偉大なる姿を見るのは、まだまだ当分先の話。気長に待つしかなさそうです。 ^^;
しかし、それ以上に山形市内で興味を引いたのが、明治~大正時代に建造された、歴史的建築物の数々。山形に関しては、主に城郭や社寺を廻ることを念頭に置いていただけに、この発見はレトロ建築物大好きな当方として、本当に垂涎の的でした。時間の都合上、様々なところに移動しなければならないことを悔いた程です。
ただ、前述にもある通り、新たな山形市の発見にもつながったことでもあります。この次に来る機会があれば、レトロな街並みや建物を探しに旅してみようと思いました。そして、実際にいくつかの建物の写真を見てみると、それらは山形市内だけに留まらないようです。時間の許す限り、探検してみたいですね。
今回訪れた建築物は、現在は山形市郷土館として利用されている『旧済生館本館』。オーストリア人医師ローレツ氏を招聘し、東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ、医療の発展、そして医学校の設立等に大きな貢献をしたそうです。
展示物は、ローレツ氏の功績、医療器具等を始め、当時の山形市内の、建築を始めとする多くの様子が写真に収められ、展示されていました。
同様に、上山市も上山城だけが目的だったのが、駅を降りた時に見た地図に、武家屋敷を始めとする史跡の数々が。さらに、上山城に向かう道なりの店には、これまた興味をそそる、木工を中心とした工芸の数々。特に上山市を発祥とする伝統工芸ではないものの、山の多い山形ならではの、森林の木々を用いた工芸品が多いのかもしれません。
上山市から北へ向かい、最後の目的地・新庄市へ。新庄城を見てから、新幹線で東京へ帰ろうと思ったのは、一番の理由は新庄から新幹線で帰ろう、と思った次第です。それによる理由は2つ。東北の紅葉が見ごろの三連休ということもあり、その最終日とあっては新幹線が混雑するのも必至。終点である新庄から乗車すれば、ほぼ確実に自由席に座れるから、ということ。もう一つは、新庄~山形間の新幹線を利用することで、これで晴れて新幹線全区間制覇(2013年時点での営業区間)出来るから、ということですw
山形を経由したところから、天候も徐々に回復し、新庄市へ到着した頃には日差しも出てきました。終日雨の予報が、最後の方でようやく晴れ。もちょっと早く晴れてほしかったなぁ、と思ったところですが… (・ω・)
新庄城は、新庄藩の藩主である戸澤氏の居城。現在、敷地内は最上公園として整備され、戸澤神社を始めとする神社がいくつか建立されていますが、かつての威容を遺す土塁と堀が、見事なまでに形を残していて素晴らしい。地図上から見てもそれほど大きい敷地ではないだけに、実際に目の当たりにした時は、結構興奮冷め止まぬ、という状態でした。 ^^
東日本大震災から2年半以上が過ぎ、復興が進みつつも一部はまだまだの状態もあったりと、やきもきが続く毎日。それでも、季節は着実に進み、景色を彩らせます。殺伐とさせるニュースが続く中、1年に1度訪れる身近な自然の恵みであっても、それを変わらず楽しめる、というのは、本当に幸せなことなんだな、と実感した瞬間でもあります。
今回の旅は、秋田→岩手→山形ですが、他3県(青森・宮城・福島)も、同様に美しい紅葉に彩られたと思います。東北の季節を追う旅。これからも続けていきたいなぁ、と思いました。
2013/11/03
[Travel Writing] Autumn has come in TOHOKU! - Iwate
東北の秋を巡る旅。二日目は岩手県です。北東北の中核都市である盛岡市をPhotowalk。
この日は生憎の曇り。一時雲が取れて青空が覗いた時もありましたが、概ね雲が空を覆っていたため、昨日の角館よりはちょっと肌寒いような感じも。青空に映え、陽光を浴びてきらきら光る紅葉もいいですが、曇り空の元での落ち着いた雰囲気の出る紅葉も、それはそれでいいよね、ということでPhotowalkは予定通り敢行した次第です。
時折、今しも雨が降りそうな天候になったりなどしましたが、そんな中でも、盛岡城址公園を中心に、お祭りの準備が着々と進められているようでして。東北の復興を祈願してのイベントのようで、既に出店もあったり、ステージでは盛岡の『さんさ踊り』が実施されていたりしました。
さらに、近所の社寺を回ってみると、折しも日曜日ということもあって、どこもかしこも七五三一色。慣れない着物を着ながら、元気いっぱいにはしゃぎまわる傍らで、怪我しないか、大事な着物を汚したり破れたりしないか、はらはらしながら我が子の行動を見守るお父さん・お母さんがいました。 ^^
盛岡というと、有名なのは南部鉄器。厳密には盛岡市と水沢市で主に生産されており、しかも双方の歴史は異なっているのだとか。盛岡の南部鉄器は、慶長年間(戦国末期~江戸初期)に盛岡藩主南部氏が盛岡城を築城した頃に始まったといわれています。
明治以降、一時は衰退を余儀なくされたものの、県や市のバックアップもあって、その隆盛を留めてきた南部鉄器。近年、様々な茶器の登場もありますが、南部鉄器ならではの工夫や、現代風にアレンジして鋳造するなど、様々な工夫を拵えているようです。時代に合わせた器の変遷を見ていくのも面白いですね。
と、ここまで挙げ連ねたものの、日曜ということもあってか、南部鉄器を取り扱うお店がことごとく閉まっていたという… (ノд`)
もしくは、地図上ではここと示されているのに、そのお店が見る影もない状態だったり。やはりこういった手間暇かかる伝統工芸は、早いスピードで栄枯盛衰する現代の流れの中で取り残されてしまった存在になってしまったのでしょうか。仕方ない部分もあるとは申せ、やはり淋しい気もします。
その他、秋色に染まりつつある盛岡市内を写真に収めながら散策。その中でも特に見惚れてしまった景色が、県庁前の並木通り。結構葉が落ちてしまってはいましたが、それでも秋らしい景色を感じるには十分で、まるでヨーロッパのアベニューを散策しているかのような錯覚を覚えます。
また、岩手銀行中の橋支店や公会堂など、レトロな建物もこの界隈に点在します。明治~大正の面影を残す、レトロもしくはモダンな建物はとても好きですので、そういったものを見ると、カメラを向けずにはいられなくなります。
また、盛岡城址公園の敷地内の桜山神社に戻ると、初めて見る行列が。『沢目獅子踊り』だそうです。調べてみたら、盛岡市をはじめ中心の市町村で、その街ならではの獅子踊りがいくつも。獅子には魔除けの効果があり、その踊りが厄除けにつながるのだそうです。なかなか見ない光景に、夢中になってシャッターを押していました。
さて。雲もだいぶ厚くなり、盛岡から山形へ移動しようという時には、パラパラと雨が。急いで盛岡駅に戻り、一路、山形を目指すのでした。
この日は生憎の曇り。一時雲が取れて青空が覗いた時もありましたが、概ね雲が空を覆っていたため、昨日の角館よりはちょっと肌寒いような感じも。青空に映え、陽光を浴びてきらきら光る紅葉もいいですが、曇り空の元での落ち着いた雰囲気の出る紅葉も、それはそれでいいよね、ということでPhotowalkは予定通り敢行した次第です。
時折、今しも雨が降りそうな天候になったりなどしましたが、そんな中でも、盛岡城址公園を中心に、お祭りの準備が着々と進められているようでして。東北の復興を祈願してのイベントのようで、既に出店もあったり、ステージでは盛岡の『さんさ踊り』が実施されていたりしました。
さらに、近所の社寺を回ってみると、折しも日曜日ということもあって、どこもかしこも七五三一色。慣れない着物を着ながら、元気いっぱいにはしゃぎまわる傍らで、怪我しないか、大事な着物を汚したり破れたりしないか、はらはらしながら我が子の行動を見守るお父さん・お母さんがいました。 ^^
盛岡というと、有名なのは南部鉄器。厳密には盛岡市と水沢市で主に生産されており、しかも双方の歴史は異なっているのだとか。盛岡の南部鉄器は、慶長年間(戦国末期~江戸初期)に盛岡藩主南部氏が盛岡城を築城した頃に始まったといわれています。
明治以降、一時は衰退を余儀なくされたものの、県や市のバックアップもあって、その隆盛を留めてきた南部鉄器。近年、様々な茶器の登場もありますが、南部鉄器ならではの工夫や、現代風にアレンジして鋳造するなど、様々な工夫を拵えているようです。時代に合わせた器の変遷を見ていくのも面白いですね。
と、ここまで挙げ連ねたものの、日曜ということもあってか、南部鉄器を取り扱うお店がことごとく閉まっていたという… (ノд`)
もしくは、地図上ではここと示されているのに、そのお店が見る影もない状態だったり。やはりこういった手間暇かかる伝統工芸は、早いスピードで栄枯盛衰する現代の流れの中で取り残されてしまった存在になってしまったのでしょうか。仕方ない部分もあるとは申せ、やはり淋しい気もします。
その他、秋色に染まりつつある盛岡市内を写真に収めながら散策。その中でも特に見惚れてしまった景色が、県庁前の並木通り。結構葉が落ちてしまってはいましたが、それでも秋らしい景色を感じるには十分で、まるでヨーロッパのアベニューを散策しているかのような錯覚を覚えます。
また、岩手銀行中の橋支店や公会堂など、レトロな建物もこの界隈に点在します。明治~大正の面影を残す、レトロもしくはモダンな建物はとても好きですので、そういったものを見ると、カメラを向けずにはいられなくなります。
また、盛岡城址公園の敷地内の桜山神社に戻ると、初めて見る行列が。『沢目獅子踊り』だそうです。調べてみたら、盛岡市をはじめ中心の市町村で、その街ならではの獅子踊りがいくつも。獅子には魔除けの効果があり、その踊りが厄除けにつながるのだそうです。なかなか見ない光景に、夢中になってシャッターを押していました。
さて。雲もだいぶ厚くなり、盛岡から山形へ移動しようという時には、パラパラと雨が。急いで盛岡駅に戻り、一路、山形を目指すのでした。
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