2016/05/06

[Review] エヴェレスト 神々の山嶺

夢枕獏による小説の映画化作品。原作小説を読まずに鑑賞したのだが、小説自体は、多くの読者が絶賛していたのだという。しかし、それであるが故に、小説ファンの落胆は凄まじかったに違いない。現に。小説を読んでいない自分自身でさえ、この作品は随所で違和感や矛盾を感じた。エベレストを舞台にした壮大なスペクタクル作品であるが故に、それを数時間の映像に収めること自体がほぼ不可能に思う。「それを知っても、よく映像化させた」という賞賛も、自身の中には無い。

年代物のカメラが、カメラマン・深町と数々の偉業を成し遂げた登山家・羽生の出会いにつながり、それが縁となり、二人を中心とした物語が紡がれる。羽生の熱気に当てられたように、深町は羽生に魅入られ、追いかけていくうちに、彼の人生観や生命をかけても追いかけたいものがあることを知ることになる。そして自身も、羽生の辿った軌跡を追い、彼が何を見出そうとしたかを目の当たりにする。
しかし、小説未読であることを前提の上での感想であるが、その描き方、物語の進め方が、あまりにも不可思議なことだらけだ。
まず、あまりにも簡単にエヴェレストに登ることが出来るように表現されていることだ。そもそも入山だけでもかなりの高額な費用を必要とするはずなのに、何度も向かっている。まるで、比較的アクセスしやすい山に登山しに行くような錯覚を覚える。しかもそれを、鑑賞中ほとんど『単独』で行っている。羽生は、彼の生き様や過去の経験から、何が何でも単独で、という気持ちはわかるが、そもそも深町に、それだけの力量があってこそ挑戦できたのか、疑問が募るばかりだった。ましてやほとんど登山の経験のない人物が、たとえ5,000m近くを拠点にして、登ってから何日も帰ってこない人を待ったりする、というのも、疑問を呈せざるを得なかった。
続いて、尾野真千子が演じる岸凉子の、エヴェレストへ行くことの動機だ。彼女の気持ちを察すれば、自分を見捨てたも同然の羽生や、その行動に至るまでの過程である『登山』そのものを恨むはずなのに、あまりにも短く凝縮された台詞で、「私もエヴェレストに行きます!」というところ。ここまで見事に心変わりし、深町のエヴェレスト登山に同行しようとする岸の変貌は、違和感を通り越して滑稽と言わざるを得ない。
最後に、ラストのシーンの、阿部寛と岡田准一の、男らしくも重いナレーションが長く続き、くどさを感じたことだ。これも演出の一部であるかもしれないが、鑑賞した後の蓄積した疲労感は如何ばかりか。


邦画作品に見られることだが、限られた時間の中で伝えたいことを凝縮して表現する『引き算』として製作していくところを、ほとんど引き算せず、一部では足し算をして一層物語を希薄にさせてしまい、そもそも感情移入や伝えたいことの顕在化が全くなされていないことがある。一方で、原作では、作品の最初に見られた『ジョージ・マロリーが撮影したフィルム』に重点を置いている、とされる。一方この作品は、ジョージ・マロリーのフィルムは序盤に重きを置いているだけで、あとはほとんど語られていない。これはあくまで、『羽生と深町が出会い、深町が羽生にのめり込むための切っ掛け』に過ぎないのかもしれない(実際、ジョージ・マロリーのフィルムは見つかっておらず、全くの謎に包まれている)。
そもそも、舞台の多くをエヴェレストに焦点を当てていること、壮大なスペクタクルを現地ロケを交えて撮影しているのだから、長期間、キャストを滞在させるわけにもいかない。本来、これほどの作品なのであれば、少なくとも前後編に分けて公開すべきなのだろうが、予算の関係などでそうはいかなかったのだろう。恐らく、様々な要因がそう簡単に解決できない状況下に置かれたからなのか、これほどまでに中途半端な作品に終わってしまったのかもしれない。

自分自身における『作品の表現』においても非常に通じるものがあるから、この作品の悪いところは、そのまま自分自身にも降りかかっているように思う。限られた時間であるからこそ、『最も表現したいもの』『一番伝えたいこと』に削ぎ落し、注力を当て、作品を作っていかなければならない典型的な例を目の当たりにしたように思う。小説が人気があっただけに、非常に残念な作品だった。