2014/08/30

[Travel Writing] Geburtsort des 9. Sinfonie in Japan

ちょっと、勢い余って予定に組んでしまった街撮りPhotowalkの一つ。夏も終わり、暑さで日々の疲れが溜まっているに加え、この時期は例年にない業務が立て込んでおり、一応の休みは貰ってはいるものの、出掛ける意欲もかなり殺がれていた時期でした。
さらに、設定した行先が『徳島』。それも夜行バスに揺られて。一旦神戸に出た後、高速バスに乗り換えて鳴門へ行く、というルートです。

夜行バスに乗る瞬間まで、「行くべきか、行かずに家でのんびり過ごすべきか…」と逡巡していましたが、折角ある程度のお金の支払いが発生している手前、やはり行って後悔するか…! と気持ちを切り替え、鳴門の旅へと実行するに至りました。

結果として、身体への疲れが一層溜まってしまいましたけれど、でも行ってよかった、と思える旅になりました。 ^^;



まず到着したのは鳴門公園。丁度満潮の時間帯で、渦も大きく発生していた模様。滞在時間が僅かだったのが悔やまれます。 ^^;
もっとくっきり渦を見るには、干潮の方がいいかもしれません。潮が引いているので水量が少なくなっていますが、水勢はほとんど変わりませんから、はっきりとした渦が見られるのではないかと思います。そして渦を見るには、鳴門大橋のスカイウォークや海岸線からではなく、定期観光船に乗船しての、船からの観測。間近で渦を見る、最良の手段です。


鳴門大橋からバス→電車で乗り継ぎ、向かった先は、板東。



お恥ずかしい話しながら、『板東』という地は、映画『バルトの楽園』を鑑賞して初めて知りました。逆に言えば、映画が自分の知見を広める一つの媒体になっているのですから、決して安易に、単なるエンターテインメントだけに扱うことは出来ないのですけれど。

第一次世界大戦の折、連合国からの要請を受けて、青島を進軍していたドイツ軍と交戦。その戦いで勝利し、4700名程のドイツ兵を俘虜として日本に収容することになりました。
しかし当時の日本には、俘虜を収容するための施設は皆無に等しく、各地の寺院等を間借りして収容した、という形を取ったため、環境としては劣悪。これを機に、全国的に俘虜を収容する施設の建設が本格的に始まり、その一つに、徳島県鳴門市 板東の地があてがわれたそうです。

『敵軍』を収容するために設けられたはずの収容所。しかし板東俘虜収容所は、他の収容所とは一線を画し、俘虜たちに対し最大限の自由を与えていました。不慮の多くが元志願兵。それゆえ、様々な職種が集まっていたそうで、パンや肉の製造、写真撮影や靴職人等、生活必需品から趣味の世界まで、そこは本当に収容所なのか? と思ってしまうくらいに、生活感と享楽が溢れる場所だったそうです。
そのため、ヴェルサイユ条約以降、多くの不慮がドイツ本国へ帰還したものの、日本に留まった兵も少なくなく、自分の持つ技術や知識を、如何なく発揮したそうです。また、ドイツ本国へ帰還した者も、俘虜になったことを切っ掛けに、日本の研究を始めた者もいたそうです。
正にここが、日本とドイツの友好の懸け橋の場所になった場所、と言えそうですね。

そして何よりも忘れてはならないのが、この板東が、今や世界でも有名な交響曲の1つである、ベートーベンの交響曲第9番『歓喜の歌』が初めて上演された場所でもあります。この曲を初めて耳にした当時の日本人は、まるで天にまで届くかのような盛大にして高らかな歌声に驚き、そして高揚したそうです。
交響曲第9番は、今では世界中で、新年を祝う曲として披露されるのが定番となっていますが、板東では、初めて上演された1918年6月1日にちなみ、6月の最初に披露されるのだそうです。


こうした歴史に思いを馳せてみると、ところどころに、当時のドイツ兵が遺して行ったものが数多く見受けられます。例えば、大麻比古神社の境内の裏手にある、ドイツ橋や眼鏡橋など。県道12号線を挟んで、高徳線の方に足を伸ばすと、『阿波大正浪漫 バルトの庭』があります。映画『バルトの楽園』のロケセットが公開され、映画さながらの世界を感じることが出来ます。

残念なことと言えば、これだけ素晴らしい逸話や史跡があるにも関わらず、訪れる人があまりいない、ということ。実際のところはいます。同じ板東にある『霊山寺』が、四国八十八箇所第1番札所ですから。お遍路さんのスタート地点という意味では欠かせない場所ですね。実際にここでお遍路さんに必要な品物の購入や講話を聞いたりもします。
その一方で、ただでさえ国際的な交流が、東京や大阪、京都に集約されるあまり、こういったところに目が向けられていないのはちょっと寂しい気もしました。地味かもしれませんし、決して交通の便もいいとは言えませんが、スポットの当たるところになったら、と思わずにはいられません。

2014/08/25

[Travel Writing] 大地の悠久の息吹を感じる旅

庄内地方の旅が比較的良好な天候だったのは、その時点で自分の運気を全て使い果たしてしまったんじゃなかろうか、ってくらいに、次の日以降の天候は雨、よくて曇天。 (´д`)

鶴岡市で一泊し、羽越本線で南へ行って新潟へ。新潟市の時点では天気は良く晴れて爽やかだったのですが、越後線→北陸本線に乗り換え、次の目的地である糸魚川に向かう最中に、徐々に雲行きは怪しくなり、直江津に到着した時にはパラパラと雨が… orz
糸魚川か直江津か、同じような場所に行くにしても、その行き方をどうアレンジするか… というところで、僅かな時間逡巡しましたが、直江津でのパラパラ雨がほんの一時的なことだったということに気づき、そのまま糸魚川へ行くことに。



糸魚川駅界隈で自転車を借り、能生まで走らせました。
糸魚川は今回が2回目。しかもその最初が、日本海から寒風吹きすさぶ真冬。当初、日本の気象状況をよく把握していない僕は、『新潟は全域で雪が積もる』という誤った知識を持っており、この時も、雪化粧の上越界隈を心待ちにしていたものです。
が、結果は惨敗。雪どころか。それも骨身に染みる冷たい雨。何でこんな雨の中をてくてく歩いているんだろう… (´q`) と、自問自答したものです。

そして今回もあまりよろしくない天気。糸魚川に到着した当初はまだ持ちこたえたものの、翌日は昼過ぎから雨。ああ、きっと僕と糸魚川の相性ってこんなものなのかな… (´ー`) と、ほぼ諦めモードに陥っておりました。

とは言え、雨なら雨で、水と水をたっぷり含んだ空気が織りなす光景というのは、やはりその天候でないと味わうことが出来ないというのも事実でして。その最たる例が、次の日、つまりこの旅の最終週に訪れた、小滝ヒスイ峡です。


小滝川の急流の水しぶきと、それが作り出す水煙。それが、渓谷を幻想的に映し出していました。水煙があたりを包み込み、靄を形成しているからこそ、渓谷の石、森、そして急流の力強さが、一層色濃く表れているのかもしれません。
『小滝川ヒスイ峡』という名称の通り、この界隈は昔から良質なヒスイの産地で、古墳時代や大和時代、各地を治めていた豪族の装飾品に使用されたヒスイも、ここから産出されたと伝わります。そしてそのヒスイは、悠久の時を超えて、今もこの地に多く眠っています。勿論、許可の無い採掘・採取は厳禁。まぁ、ポケットに忍ばせられる大きさのヒスイは存在せず、今、この渓谷にあるヒスイは、いずれも大型クレーンでもないと持ち出せませんが。 ^^;

もう一つ興味深いのは、このヒスイ峡、規模は小さいながらも糸魚川市の観光スポットとして紹介され、洪水対策として川岸が整備されています。その整備された川岸に敷き詰められた石も、何百年前から何億年前、という、人類が誕生する以前の年代のものに分けられて敷き詰められていまして。そういった違いを見せることにより、この地が地質的にどのように変化していったのかを体験する意味も含まれているそうです。
糸魚川は、フォッサマグナの西端に位置する場所。フォッサマグナとは、ラテン語で『大きな溝』を意味し、かつてこの場所が海の底であったことを示す証拠がそこかしこに。このヒスイ峡に行く道すがらで見える、屹立する『明星山』。この山の成分の多くが石灰岩で出来ている、ということもその証拠の一つなのだそうです。しかも、その石灰岩の地層から、大量のアンモナイトをはじめとする化石が出土されたとか。ヒスイの生成も、大いなる地球上の営みから生まれ出でた宝石。一見、変哲のない峡谷のように見えるものの、そこには、何億年と刻まれた地球の鼓動が眠っているんだなぁ、と思いを馳せました。

糸魚川ジオパークは、2009年に、世界ジオパークに認定されています。


ここで産出されるヒスイが、古代の豪族のステータスになっている、というわけですから、当然糸魚川には、古代のヒスイの加工場所がありました。その遺跡群も、市街地でいくつか見ることが出来ます。


しかしここで雨脚が強くなってしまったため、『フォッサマグナミュージアム』で雨宿りを兼ねて見学。フォッサマグナを発見したナウマンの功績を始め、糸魚川とその近海の地形・地層だけでなく、連綿と続いた地層やその時代の岩石・化石などが多種多様に展示されています。
また、ヒスイと一言で言っても、産出地によって、形状は勿論、見た目や性質も結構違いますね。地層・地学好きの当方としては、非常に面白い場所です。

さて、雨はというと、帰りの時間となっても止む気配は無く、結局糸魚川は、両日ともにあまりよろしくない天気の中での街撮りPhotowalkで終了を迎えました。 (´・_・`)
初日が運が良かっただけに、二日目・三日目の分の運を使い果たしてしまった、とも言えなくもありません。 ^^;
願わくばすっきりと晴れた日に街撮りしたかった、とは申せ、こういった天候ならではの光景も見ることが出来た、という収穫もありました。1つでも収穫があったのなら、それはそれでよしとしましょう。 ^^;

2014/08/23

[Travel Writing] 晩夏の庄内地方巡り

予てから、Google+の写真家さんの一人で、美しい庄内地方の写真をアップしている方がいらっしゃって、見ているうちに旅情が募り、庄内地方への旅を決行することと相成りました。
庄内地方の旅は、酒田に続き二度目。その酒田は、丁度雪が降りしきる真冬(それも鉄道が除雪が追いつかず運転見合わせになるほどにw)でした。今回は、鶴岡→遊佐→にかほ と、鳥海山を挟んで秋田方面へ。晩夏の庄内地方は、夏の暑さがやや形を潜め、替わって通りの田んぼの稲穂の色が黄金色に変わりつつある、そんな、秋の気配が少し感じられる風景が広がっていました。
今回の旅では、件の写真家さんがお車を出していただいて、しかも庄内地方の素敵なスポットを紹介して下さって。このBlogをご覧になっているとは思いませんが、この場をお借りして御礼申し上げます。 m(_ _)m


にも関わらず、当方の「鶴ヶ岡城にも行ってみたいです」という、有効に日程を使うべきなのに、鶴岡に到着早々城跡にご案内下さりまして… (´∀`;) 有難いことです。
戦国時代には前身の『大宝寺城』が建てられ、最上氏や上杉氏の所領争いの的となっていました。関ヶ原の合戦により上杉氏は会津へ転封、この時、城は鶴ヶ岡城へ改称されたと言われています。石垣は主だったところのみでほとんどが土塁と堀で構築された城郭です。

当初、この日の庄内地方の天気は雨。まぁそれならそれで楽しもう… と腹を括っていたのですが、夜行バスに乗り朝になってカーテンをちょっと開けてみたら、何と青空が! (゜∀゜) 鶴ヶ岡城界隈も、写真のように太陽の光が降り注いでいました。
とは言え、空全体が真っ青、というわけではなく、まだちょっと不安定気味。雨の心配が全く無い、というわけではなさそうです。


その一方で、今回ご同行いただいた方曰く、「羽黒山はむしろ霧がかかった方が幻想的」というアドバイスをいただきまして。羽黒山に向かった時は、早朝の晴天は形を潜め、今にも雨が降りそうな雲がかかっていました(実際は降らずに済みましたが)。しかしその霧が、境内を幻想的ともいえる湿り気を含ませ、そして神秘的な光景を映し出しておりました。
五重塔近辺では幻想的な霧に包まれていたものの、足を伸ばして羽黒山山頂へ向かったところ、霧や雲がさっと晴れ、遠くの山々も広く見渡せました。今日は何だか運がいいなぁ、とほくほく思ったものです。 (´∀`)




その後、ご同行いただいた写真家さんのお勧めスポットを中心とした場所へ。丸池様→元滝伏流水→月山へ。丸池様、元滝伏流水もいい天気に恵まれまして。特に元滝伏流水は、到着したのが午後なのですが、写真家さん曰く、午後に(写真にあるような)木漏れ日がさすのは初めて見た、ということで(早朝の木漏れ日は何度も見た、とのこと)。貴重な体験になりましたねぇ。 (´∀`)
これらのスポットへ行く道すがら、車の外に目をやると、月山には雲がかかっておらず、お、これはいい写真が撮れるか!? と、喜び勇んで月山八合目まで向かったものの… このPhotowalkの最終目的地である月山は、残念ながら厚い雲に覆われ、夕焼けの光がほんのちょっと見えるだけに留まっておりました。
行きたかったスポットと、その時点での天気を鑑みると、3勝1敗、という感じでしょうかね。 (´∀`;) 月山に関しては、八合目に到着し、弥陀ヶ原を散策するに留まったため、山頂に登るためにもう一回挑戦せよ… という意思表示なのでしょうかね。

ちなみに丸池様は、『様』まで含めるのが正式な名称らしいです。写真のように、エメラルドグリーンに映るのは、その日の水の透明度や、日差しの差し方によっても変わるため、本当に美しいエメラルドグリーンの池を見るのは、結構珍しいらしいです。
言い伝えによると、この池には意図的には足を踏み入れてはいけない、とのこと。踏み込んだら、片目がつぶれるらしい、とか… (´д`;)
という言い伝え云々抜きにしても、やはり自然が生みだした美しい風景、おいそれと足を踏み入れてはいけないことがよく分かります。


今回の、秋田県かほく市を含めた、庄内地方を巡る晩夏の旅は、貴重な体験になりました。夏だけでなく、秋など、他の季節にも行ってみたい、その時の光景を目に焼き付けたい、という強い旅情が生まれましたねぇ。
特に、月山はやはり登頂したい、という気持ちは強く募りました。流石に月山は、秋深まる頃には積雪の恐れがあり、山への道は閉ざされます。来年の夏、チャレンジしたいと思います。 ^^